こんなにホンダが好きなのに・・・【2代目プレリュードAB型 その2】
- 2025.08.03
- 自動車

土厳車だぞ!
田舎なので靴に土が頻繁に付着する。それで車に乗るとマットが泥だらけ。それが我慢ならなくて、思い切って土足厳禁にするという暴挙に出た俺。ところがこれが非常に危険な行為で、まず靴を履き替えるのが面倒で、なおかつフロアに靴を抜いていると、ブレーキやクラッチの間に挟まって超危険なことが分かった。
だったら靴は脱ぐけど、裸足で(靴下を履いたままの状態で)運転すれば、リニアに素早く操作が出来る、思って実践したけど、とんでもないことだったね。感覚が靴底の分ズレるし、足は彼方此方に当たって痛いし・・・。
結局1か月ほどで、このナンセンスな試みは断念した次第!馬鹿だねぇ・・・。
1200km2本の耐久テスト
4年目に入るとこの車で2回の1200kmのドライブにチャレンジした。もちろん車の運転は好きで、年に1万キロ以上は乗っていたけれど、一気に1200kmのドライブと言うのは勇気が必要だったかな。はたして走れるのか?って言う不安だよね。
けれど実際に走ってみて、車と言うのは高速を100kmで走るような走行では、滅多に壊れるようなことにはならないな、と確信を持ったことが大きい。普通にすうなりとなしてしまうんです。最も国内では1200kmは相当な距離だけど海外、特に米国なんかだと当たり前のこと。
そう考えると大したことではないのだけれど・・・問題は人間様の方。15時間も連続してシートに座り続けるのは流石にしんどい。良好なシートでも相当キツイと思うけど、プレリュードのシートではまるで拷問そのものだった。
その頃、シートはレカロという神話を聞きつけて、早速カーショップへ。でもレカロのシートはどれもシートレールが取りつかず、また座面のとの位置関係でも取り付けを断念せざるを得なかった。
とにかく自動車のシートは大事だってことを、この車で実感できた次第。
チェーンが装着できん!
5年目に入った真冬のある日、仕事を終えて一泊し、早朝から名神高速で東京に向かって爆走中に、彦根を過ぎたあたりから小雪がちらつき始めた。ラジオからは雪になるという情報が流れていて、此の先新幹線でも雪に悩まされる関ケ原を早く通過しないとまずいと思いながら、走ってた。
この時、タイヤチェーンは所持していなくて、ガスも半分ほど。冷静に八日市ICで降りるべきだったのだが、勝手にいけると判断し、彦根を通過。何とか小ぶりの雪の中遂に関ケ原までくると警察車両が通行止めの準備を開始し始めていた。けれども前方の車両も次々に通過していたので、大丈夫だろうということで通過。バックミラーを除くと自分の後数台が通過したところで、ゲートを設置され通行止めとなった。
その頃には雪は本降りの様相で、車速は40km/hほどでのろのろ運転。このまま、という願いも空しく5分ほど走って降雪が強まり、午前10時頃車列は完全に停車した。完全に雪の中高速に閉じ込められてしまった。
時間とともに激しくなる降雪の中、ガソリン残量は1/3ほどだったけど、寒くてアイドリングが止められなかった。フロントガラスに雪が積もり視界が無くなると寂しく負何なので、大きな1本ワイパーを動かしたままだったけれど、次第に雪で可動範囲が押さえつけられ、モーターが焼けると判断し止めた。
こんな時はとにかく情報が欲しい。幸い昼間だったので隣に停車していた車両までいって、運転手の人とコミュニケーションをとっておこうと声をかけると、自分と同じように関ケ原を通過したことを後悔していた。降雪が強まると当分の間は動かないと話して、いざと言う時には助け合いましょう、と言いあった。そしてもっと声をかけておこうということで周囲の4,5台を回って、助け合うことを確認した。
午後3時頃になって、後方からJAFの車両が来てくれて、一台一台状況を聞き始めた。丁度車列の最後部だったので、隊員が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。「燃料はありますか?」「チェーンは持ってますか?」と質問してくれて、10リットルの給油と専用ではないけれどとりあえず装着できそうな金属チェーンを貸してくれた。
そして一人の隊員と自分とで金属チェーンを前輪に装着しようとして、手が止まってしまった。「これ、チェーンつかないですねぇ・・・」と困った表情を浮かべた。
2代目プレリュードの前輪の足回りは、当時は斬新だったダブルウイッシュボーン型サスペンションを採用していた。しかも上部の取り付け支点がタイヤ幅の中央位の位置にあって、ブッシュとタイヤの距離は3センチほどしかなかった。なので金属チェーンをタイヤに巻こうとすると、ブッシュの取り付け支点に当たってしまう・・・。
一般的なストラッドサスであれば、ショックアブソーバーがアッパーアーム的な役割を担いシャシー側に取り付けられるのだが、理論的にはサスペンションストロークが長くでき、しかも路面の変化に対して接地面変化が少ないダブルウイッシュボーン型は理想形だけど、こうした場合の許容度は狭まってくる。
「当たってもいいですから何とか付けてください。動けないよりはいいですから」といって、無理を押して装着してもらい、代金を支払った。この時点で行くはますます強まってきた。
周囲にドライバーさんやご家族で協力し合い、僅かな食糧(と言っても御菓子類)を融通し合いながら、何とか寒さをしのぎつつ、丸々22時間ほどしてうやく雪がやんだけど、その頃にはほぼタイヤが隠れるほどの降雪量となってた。周囲のドライバーさん達も除雪を始めていて、燃料もあと5,60kmは走行できる分だけは何とか確保した。
さらに夕方になると、前方の除雪が終わったらしく、のろのろと車列が動き始めた。走り出すとカンカンカンとアッパーアームの支点の案の定チェーンが当たる。しかも外側のフェンダーにも当たっているという厳しい状況・・・。走るとチェーンは回転の遠心力で緩んでくるから余計だ。
帰宅するまでは少なくとも400km位走らねばならず、とりあえず給油して満タンのしないと話にならぬ、ということで、1時間ほど走って、岐阜の養老サービスエリアにたどり着き、給油をしようと思ったけれど、今度はエリアに侵入してから給油所まで区間の除雪が出来ていなくて、たどり着けず、何人かで除雪を行うという有様。
また給油機まで辿りつくと停電の影響で給油機の殿堂ポンプが動作せず、スタンドの責任者らしく男が、ガソリンが入れたいなら手動で給油してくれと。給油機に裏に丸いハンドルがあって、重くて数回転するごとに休み休みで満タンになるころには手に豆が数カ所できる始末。こんなことも初めての体験だった。
幸い名古屋を過ぎるころには大分小ぶりとなって除雪も必要ないくらいの状況になったので、危険は承知で路肩に止めてチェーンを外した。
運よく帰宅できた翌日にアーム類を調べると左右ともに破壊すれすれの状態であることがわかり肝を潰した。なぜならその状態で東名高速では100km/h巡行していたのだから。お陰で左右前輪のサスペンションのアッパーアームとブッシュ類は全交換という大手術を受ける羽目になった。
クラッチなんか面倒!
5年目になる頃には、いろいろと車に関する知識も増えて、ギヤボックスなんかも一通り分かってきたけれど、要するに車速とギヤの回転数さえ合えば、クラッチペダルは踏み込む必要がないことに気がついた。理屈ではそうだけど、現実に回転が合わずにシフトすればギヤの歯を噛むことになって、大きな音がして歯先を噛むことになってしまう。
高級車のギアボックスだと駆動側のギヤと伝達側のギヤにシンクロメッシュという互いの回転を同調させやすい機能部品が組み込まれているけれど、このプレリュードにはシンクロメッシュが5速全段にはついてなかったような・・・。
けれども、ある日、シフトレバーに力を入れて回転同調をするポイントを探せば、ストンと入ることに気付いた。そのギヤの同調回転数をタコメータで暗記することで、5速全部をクラッチレスで繋げるようになったのが、くだらないけれど嬉しかったのを覚えてる。
そんな野蛮なことをしていても、この車は非力なので何とか壊れずに済んだ、と言うことかもしれない。
なので、ヒールアンドトゥを練習しつつ、それをクラッチレスでやっていたという・・・。くだらないねぇ・・・。
乗り潰したつもりが・・・
購入時45000kmの走行距離だったこの車は、4年半で86000kmとなっていた。そしてこれだけ乗り倒して、内にはエンジンのクランクシャフトとコンロッドを繋ぐ部分にあるメタルベアリングから異音が出始めて、手放すことを決意したけれど、このエンジンを直す気になれなかったことが一番大きい。
もちろんエンジンをオーバーすれば、具体的には降ろしてバラして、メタルベアリングとバルブスプリングを換装して再度組み直せばまだまだ走れるだろうし、自分でそれをやってみたかった。後年趣味が高じて、油圧リフトやバランサーを工場に設備してしまったけれど、当時はそこまでの知識はなかった。
それでもできるだけ整備をしてきたし、とくに足回りには気を使ったつもり。エンジンを組み直せば十分に走行できる車両だとは思ったしね。
そんな折、この車を買いたいという客を親しい中古業者が連れてきた。十分に説明をして、エンジンを組み直して、と言ったらそれでもほしいと。何と購入価格とほぼ同額で買っていただけたのには、内心ビックリした。
何せプレリュードと言えば、当時のベストセラー・スペシャリティ・カーだったからね。
最も愛でた自分にとって最高の車
2代目プレリュードは、ES型(CVCCⅡ)から電子制御燃料噴射(PGM-FI:プログラムド・フューエル・インジェクション)を搭載したDOHC4バルブエンジンを搭載したB20A型とマイナーチェンジをした。そして代替わりするたびに人気が剥落し、遂には2001年に5代目で生産終了の憂き目を見た。
その理由は一にも二にもデザインだと思う。ホンダはこれほど不気味なデザインしかできないのか?って思いながらプレリュードのモデルチェンジを見ていたけれど、全くどれにも触手は伸びなかった。
藤沢武夫と本田宗一郎の去ったホンダは、両氏の影を引きずりつつ、経営の近代化が上手く行ったとは言えないと思う。
確かに1990年のNSX発表後は変化の兆しは見え始めたし、技術陣はVTECを進化させ、高度にエンジンチューンを施したインテグラ、シビック、S200というTYPE Rシリーズで確固たる地位は築いたものの、デザインやインテリア、居住性と言った本来市販車が持つべき重要な視点を蔑ろにした。
そしてなんとメガヒットさせた車両は「N-BOX」という軽のワンボックスシリーズだというのだから、これをどう表現したらいいのか分からない。
そのホンダは何を思ったのか24年ぶりにプレリュードを復活させるという・・・。もちろんハイブリッド化して今風のデザインで・・・。ドル箱になるような高額な車両をヒットさせたいという気持ちは分かるけど、残念だけどそのデザインは今となっては凡庸だ。トヨタもだけど、困ってくるとデザインがウルトラセブンのポインター号のようになってゆく。
そういった車両は日本の風景と日本人にのマインドに溶け込むことは難しい。
しかし2代目プレリュードのデザインは、当時の若者のハートの中心を鮮やかに射貫いて見せた。今それが出来ないのは、ホンダが凡庸な自動車メーカーになった、と言うことかもしれない。
2代目プレリュード以降数々のホンダ車を乗り継いできた身としては、どれもその時々で自分にとっては最高の車だった。それでも2代目は特別なんだけど。
2005年にS200を手放して以来、最愛のホンダ車にはめぐり合っていない。
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