新年おめでとうございます!今年は・・・
- 2026.01.03
- 放言
あっという間に3日目となった感じ。年々月日が流れる速度が速くなりすぎて、嫌になるというか、昔(若い頃)はそれほど意識することはなかったと思うしね、そう考えると時間の流れって明らかに個人のとらえ方次第なのかも、と思ったりね。
時の流れは平等で・・・といわれるけれど、なんかそれも怪しいぞ!ってね。昨年末あたりにはちょっと量子論とかの記事やら動画を結構見たりしてたんだけど、あの世界を理解しようとすればするほどに、何か、今の常識的な感覚ってあまり意味がないのかな?と思えてくるんですよ。実に不思議な世界だからね。
でも「その不思議そのもの」がまさに現実なんだと思うと、頭がこんがらかった来る。時間なんて実はない、とかね、そういう話なんだけど。
実際量子論の中心に位置するのは観測(観察)するまでは、量子はどういう状態にあるのか特定できないということ。おいおい!人間が見るという行為でその量子の形が決まるって何それ!?って感じ。いわゆる「量子のもつれ」だって強固に引き合った二つの量子を強引に引き離して片方を遠隔地に置いておく。遠隔地ってのは理論上宇宙の果てでもよい。
で、手元にある量子を観察したとたんに、その遠隔地にある量子の形態もわかる(決まる)なんて言われても、何言ってるの?みたいな感覚しかない。二つの量子は互いに影響しあうはずがないというのが従来の感覚であり常識のはずが、実は間違ってます、みたいなことを言われちゃうと、マジで言ってる?って思うでしょ。
「重ね合わせ」とか「トンネル効果」とか、量子論には理解できないことばかり。
だいたい「量子のもつれ」には「時間の概念」が入り込む余地さえない。何それ!?ってことで年末を迎えてしまいました。
でも、同じじゃないけれど、それに似たことはあり得るじゃないか?と思ったのが年末ジャンボ宝くじでね。今回興味半分で50枚買ってみたんですよ。それで31日が抽選日だったのだけれども、すっかり忘れてて、今朝方思う出して照合してみたんですよ。
これってもしかして量子論に似てるな!ってね。だって31日の抽選で当選番号が決まった時点で、手持ちの宝くじの状態が決まるってことでしょ。最初から手持ちの宝くじは当たりかはずれかのどちらかだと予想はできる。でもあくまでも予想であって、だからこそ「夢を買う」みたいな形容が成立するんだけど・・・。
で、31日に当選番号が決まって確実にいくつかのくじは当選していることになる。けれども宝くじの所有者がその番号を確認しなければ、あたりくじが出たことさえ曖昧なまま。ということは所有者にとっては観察しないと本当に当選番号があるのかさえ分かっていないという状況。
そして手持ちの宝くじの番号を1カ月間照合しなかったとすると、手持ちの宝くじの状態はわからないということになる。で、思い出したように照合(観察)すると、その時に初めて当たりか外れかが決まる。
おおおおっ!まさに量子論じゃないか!
ここでちょっと考える。手持ちの宝くじは年末31日の時点ですでに状態が確定しているはずなんだ。でも、照合(確認)したのが1カ月後だとすると、その1カ月という時間は、手持ちの宝くじにとって何の影響も与えていない、無意味なもので、時間の経過が結果に影響するようなことはあり得ないんだよ。時間の経過が結果に影響を与えないとすれば、時間をどう捉えていいのかわからなくなってくる。
もちろん、そういうことは観察者(くじの所有者)以外には意味のないものかもしれない。確率論からすれば手持ちの宝くじは限りなく外れに近い紙屑なわけで、極めて容易に外れだと推測できちゃう。だから観測(照合)しないと決まらないと言われても違和感しかない。大部分の人は外れと思ってるからね。
量子論からかけ離れたあまりに稚拙な例えだけれど、要するに我々が「常識」としていることが、いかに間違ってるか?ってことを量子論っていうのは示唆してる気がするってこと。時間は流れてる、と常識で考えても本当は流れてないのかも。みんなに平等に流れてると思っても全然違ったり。
歳をとって皺もできて老いていくということと時間とはあまり関係なくて、今の環境に身を置いた結果なんじゃないかな。鉄が酸化して錆になるように、人間も酸化して皮膚が劣化してるだけなのかも。
残りの人生も長くはないけれど、なんかね、常識と思って生きてきたことを、もっと疑ってみるべきなんじゃないか?って思ってます。世の中の在り様にもだいぶ飽きてるし、ますます日本社会も閉塞感ばかりでつまらなくなってると感じるしね。
今年、2026年は自分が大きく変化する年かもしれないし、そうしないと自分を失うよな、そんな気がしてます。
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