総理の座の軽さ:安倍首相辞任について思うこと
- 2020.08.29
- 放言
第二次安倍政権で7年8カ月、第一次政権と合わせると8年7カ月にも及ぶ総理大臣在職で、日本の憲政史上最長政権となって8月28日に辞任を発表した安倍首相。しかし、総理官邸は28日17時から会見を開くと発表しておきながら、わざわざ当日の13時以降に故意にNHKに情報をリーク、発表直後(14時過ぎ)の日本市場は大荒れとなった。
これによって、新型コロナ以降多くの個人投資家が参加していた株式市場ということで、多くの個人投資家が怪我をした(場合によっては大怪我となった)と思われる。本当に、政権末期の現在の官邸はバラバラになってしまっている。
唐突な辞め方が国民感情を逆撫で
第一次安倍政権では1年足らずで閣僚の不祥事が続き、参院選挙で敗北した責任を取って、「体調不良」という理由で1か月入院雲隠れの末に、辞任したという経緯がある。辞任後、「潰瘍性大腸炎」という持病を抱えていたことを釈明した。
そして8月28日、またしても同じ病気を理由に、7年8カ月続いた総理の座を投げ出してしまった。「潰瘍性大腸炎」再発という理由を改憲で述べているが、すでに6月の定期健診当時には異変を感じていた、ということで、改めて8月に入り検診の結果から悪化していると診断され、さらに新薬治療のため向こう1年間は定期的な治療が必要と説明した。
しかし、様々な報道や情報、そして前日の菅官房長官の発言も含めて、ごく少数の人間のみで辞任を決めたと思われる。辞任を知った閣僚たちでさえ、突然で驚いている、とコメントしていた。
しかし果たして、こうした唐突な辞任の仕方が許される立場なのか、と多くの国民は感じてるはずだ。中小企業の社長でさえ、突然辞めるとは絶対に言えない。どのような組織であろうと、トップに立つということは、最低限、自らの立場と同等に組織の人々を案じなくてはならない。
まして日本国の総理ともなれば、身を挺する覚悟が必要だと、それが理想論だと知りつつも国民は期待している。
アベノミクスは最初の2年だけ
そもそもアベノミクスとは、安倍内閣における日本経済の成長戦略の総称だ。特に長年続いたデフレを脱却するために金融緩和政策、財政政策(国内投資)、民間投資促進策を三本の矢称し、これによってデフレ脱却を実現するとともに、日本経済を成長させようというものだった。
しかし、これが効果的に機能したのは第二次安倍内発足から約二年間のみ。2013年6月発表時点ではすでに日銀の異次元緩和は行われていて、財政政策は翌年度からという状況に加えて、非正規雇用の増加や女性の社会進出の増加といったデフレ政策の延長線上で対応するという、中身のないものになった。
三本の矢はみな折れた
2013年4月に日銀は「異次元金融緩和」と称して、ゼロ金利政策と、日本国債の買い取り、株式市場への直接介入によって大幅な金融緩和政策に転換した。その時にインフレターゲットを1年以内に2%達成を掲げていたにも関わらず、数回にわたって追加的緩和を実行し、マイナス金利まで踏み込んだものの、1度たりとてCPI 2%にタッチすることはなかった。それどころか、増税による消費抑制圧力とPB(財政均衡論の復活による財投抑制)によって、金融緩和効果はすべて剥落した。
また、第二次内閣発足後、2015年度からは、PB主導の財務省圧力に完全に負けてしまい、東京五輪のみが、頼みの綱であったが、新型コロナで中止に追い込まれた。また数回にわたる国土強靭化計画も、当初の予算を財務省が難色を示したことで大幅に削られたために、景気回復の一助にはならなかった。
さらに非正規雇用の増加・促進、女性の雇用増加によって失業率を低下させる政策はある程度効果をしめしたものの、家計単位の可処分所得の5年連続減少、平均賃金の低下によって、企業間格差のみならず官民格差が増大し、総じて日本経済はデフレ脱出のチャンスを逸した。
そこに追い打ちをかけるように2020年1月、新型コロナ感染拡大によって日本経済は崩壊してしまった。これで永遠にデフレ脱却は不可能かもしれないといわれる状況に突入した。
最悪な第四の矢
2013年、内閣発足当時から、財務省主導で甘利明経済財政政策担当大臣によって位置づけられていた。つまり、安倍首相の言とは裏腹に、消費税の2度の増税や財政のPB(プライマリーバランス)論は一貫して行われていた。
安倍首相は社会の高齢化による福祉予算、そして増大する医療費に対応するために大幅な増税が必要であるという財務省の方針や、財政の収入と支出を均衡させるというPBに徐々に傾いて行ってしまった。
このことが、夫婦共働きによる家庭や教育の崩壊、官民格差、企業間格差、正規・非正規による待遇格差等々、あらゆる社会格差の増大を促進する結果となったのは言うまでもない。
経済学上、また財政学上、PBが有効などという理論、学説はどこにもない。むしろ貨幣論からして、借金(負債)が経済拡大効果をもたらす唯一の源泉であるという常識は、今の自民党幹部、政権幹部、財務省官僚には、誰一人として届いていないことが分かる。
高橋洋一氏によれば安倍首相は理解はしているものの、実際の政策は正反対のことばかりしている、とコメントしている。財務省に逆らうことができなかった、政治主導の行政が実現していないということだ。
消費税増税でぶち壊し
第二次安倍政権での最悪の失態は、2度にわたる消費税増税であることは言うまでもない。これによって日本経済の将来は、閉ざされたに近いと思っている。
そもそも、消費税(付加価値税)の発想は、領民に重税を課す、または植民地に重税を課す、という欧州の専制君主的な発想から生まれている。すなわち、国民が消費をするたびに、罰金を課すというおおよそ考えられない課税手法を、最も安易に確実に、景気変動に左右されずに安定的な財源を確保できると分析した財務省が飛びついたもの。
事務手続き等々もすべて民間に無償で行わせるから、おいしい財源になっているわけで、仮にずべてを委託業務にしたら赤字になるとさえ言われる代物である。
こうした日本経済の実情を安倍首相はすべて、機会あるごとにレクチャーを受けて理解しているといわれる。だからこそ、なおのこと許すことができないのだ。
絶対公約の拉致問題・憲法改正は手付かず
拉致被害者家族を待たせ、失望させた
そもそも、小泉内閣の内閣官房副長官時代に北朝鮮に随行し、僅かと言えど拉致者を帰国させ、なお中山恭子氏(内閣参与)とともに出国を拒否したという経緯はあった。そのために、安倍首相に対して拉致被害者家族の期待は大きかったわけだが、その期待は一度も実現の方向には動かなかった。
しかし、確かに小泉内閣当時から北朝鮮に対する経済制裁を主張し、そして自民党幹事長時代、日本国内からの北朝鮮に対する送金業務を禁止し、スイスを通じて迂回送金を行っていた足利銀行は、りそな銀行よりも内容が良好だったにもかかわらず破綻させた。
以降の歴史を見ても国内金融機関の大型破綻は起こっていないし、破綻とともに大くの中小企業経営者を苦しめた功罪はしっかりと指摘されるべきだ。
そうした経緯もあって、国民は「拉致問題は最重要課題」という安倍首相の言葉を信じたのだ。信じていままでじっと耐えて待っていた。ところが、日米との関係で重い腰が一向に動かない。トランプ大統領は無意味な金正恩との会談を3度も行ったが、成果なしだった。
結局、おびただしい数の拉致認定者の家族は、日本国民の命を守るという内閣総理大臣の義務に対し、安倍首相の発言と行動の不一致は大いに失望させられることになった。
世代交代しないと憲法改正は無理
そもそも安倍首相は、世代交代で平和憲法至上主義を変えない限り、改正は不可能であることを十分に承知していた。それだけでなく、連立政権を組む公明党そのものが会見反対派であるにもかかわらず、連立解消をしなかったことでも、初めから改憲の意思はなかったと思われる。
安倍首相が不可能とわかっていて憲法改正を主張していたのは、保守派の支持を取り付けるために他ならない。第二次政権で首相に返り咲くためには、リベラルな民主党派を駆逐する必要があり、保守派の支持をかき集めた。つまり、憲法改正論議は、首相に返り咲き、また政権を維持するために保守派の支持を継続する方便であったに過ぎない。
改憲には上記のような極めて複雑な手続きを踏む必要があるが、安倍内閣では衆議院の憲法審査会でさえ、議事録を提出するばかりで一度も採決に至っていない。それは単純な話、国会議員の改憲派が少数派だからである。
米国の太鼓持ち
G7首脳の中にあって、在職が最も長いのは、ドイツのメルケル首相と日本の安倍首相である。安倍首相は、メルケル首相の第一次~第四次内閣を通じて2005年11月から現在までの約15年間に次ぐ第一次政権と合わせて8年7カ月の首相在位期間となり、まさにG7の顔となった。
特に第二次政権では「外交の安倍」とばかりに世界中を飛び回り、あらゆる場面で仲裁役を買って出ていた。しかし米国でトランプ政権が誕生すると、辛辣なトランプ大統領と各国の調整役を自認していたような動きに終始した。
特にイラン問題では、米国とイランの戦争突入の危機を回避するイラン訪問を単独で行うなどしたが、遂には北朝鮮訪問、拉致問題解決に踏み込むことはなかった。
総理の椅子は軽い?
今回の総理辞任に対して海外の反応は「アンビリーバブル!」というものだった。一般的に権力の座に就いたものは、一生手放したくないと考えることが、常識だからだ。ロシアのプーチン、中国の習近平などは権力の座を永遠のものにするために制度や法律さえも変えてしまう。そうして権力に固執する態度が当たり前、というのが海外の常識だ。
なので海外から見れば、総理になって1年そこそこで次々に辞めてしまう日本は、不思議の国だったからこそ、今回安倍総理が7年8カ月の安定政権であったことを高く評価していた。しかし、今回の会見で、「持病の潰瘍性大腸炎で職務継続が不可能と判断した」と発表した安倍首相の態度が信じられなかっただろう。少なくとも、会見で1時間以上のスピーチをこなせるコンディションで、辞めるという選択肢は海外ではありえないからだ。
まして盟友のトランプ大統領にさえ、直接辞任を知らせていなかったわけで(下話はしていただろうが)、トランプにしても寝耳に水だったろう。
しかし、内閣総理大臣という職は、全国民の生命や財産、そして日本という国家の歴史と伝統を守るために、命がけで(一身を捧げて)職務を遂行しなければならない、と考えるのは古い人間だからだろうか?
国家に命を捧げた靖国の英霊に参ることもなかった安倍首相には、そうした総理としての重さが、国家に一身を捧げるに値するもの、という感覚はなかったのだろう。
そして議院内閣制で首班指名を受けるということはつまりは、国民からの負託以外の何物でもないわけで、それを持病の悪化を理由に投げ出せるものなのだろうか?
それができるのは、そこに命の危険が明らかなときだけだと思う。そうでなければ、多くの国民の心情は、表立って批判は避けても、納得できないものが残り続けるだろうと思う。
新型コロナ、中国の領土侵略、という危機の真っ最中で、辞任できてしまう首相というのがあり得るのかと考えざるを得ない。だからこそ、国民から「お疲れさまでした」の声がまとまって聞かれないのではないだろうか。
国家・国民が直面している危機を無視していつでも投げ出せる・・・総理の座はそんなに軽いものではないはずだ。
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