文春砲は日本社会に風穴を空けることが出来るのか!?

文春砲は日本社会に風穴を空けることが出来るのか!?

米国の記事をいくつか書いている最中だったけれど、文春砲が炸裂してから手につかなくなってしまった。いままで文春や新潮といった週刊誌はもう少しまともな内容を掲載すべきと思うほどに、つまらなかった。大学時代には時々気まぐれで買ったりしていたし、旅行の時や去年入院を繰り返したときなどは、買って読んだりしたけれど、全く内容がペラペラで話にならないと思ったしね。



俺の中では文藝春秋=芥川賞

文芸春秋の方は芥川賞が発表されるときには買って読んでいるけれど、もう小説誌、文芸誌ではなくなってて、言論誌のような風体だったから面白くないんだよ。対談とか掲載されても言葉を活字にしてしまうとニュアンスが分からなくて、映像には負けてしまう。作家が言葉を選んで対談してくれるならいいけれど、政治評論家とかジャーナリストの記事はちょっと伝わらないことが多い。

15年ほど前だったか、石原慎太郎が芥川賞の選考委員なんか駄作ばかりでやってられるか!って辞任したけれど、確かにそういう気持ちも分からなくはないほど、ビジネスライクな評価が先行しちゃってた。出版不況でもあるので、まずは売れる作品を!というのが見え見えで作家のプロファイルに特徴があることまでが、選考条件になってるって異常事態だったし。こうした文学賞の著作権は出版社に帰属します、というのがルールで、これもふざけるな、と思う。せめて折半くらいしろよってね。

で、ここ20年位の芥川賞ってほぼ時事ネタというか時代が注目してるような内容の作品に決まってる。そういうのも嫌らしいし、ちょっと前なら「少子化」とか「シングルマザー」「貧困層」というのが背景にあったりしたし、いまならLGBTとかSDG’Sとか。多分久々に「戦争」とかもバックグラウンド候補かもしれないけれど。でも純文学と言うならば、文字の抽象性をいかに使って心の曖昧さを表現するか、に意味があると思ってて、(本が)売れる売れないじゃないし、芥川賞と言うならば、その選考基準には龍之介の難解なマインドが宿ってないとね。

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週刊文春

というわけで話は横道にそれてしまったけれど、文春の話だよね。1959年創刊の週刊文春は、要するに文芸春秋では儲からないのでエンタメにに振った手軽に読める週刊誌を、ということやライバルの小説新潮が1956年に週刊新潮を創刊して好評だったことを追従した形での創刊だったわけ。だから、最初から新聞の三面記事的な要素が強く、また日本にはタブロイド誌がなかったことから、電車のなかでも気兼ねなく読めるサイズ、そして気軽に読める読み物という狙いもあったようだ。

そうなるといきおい企業や政治、経済、芸能人、著名人のスキャンダルが編集の中心になるし、その意味では完全に文芸誌とは一線を画すもので、新聞ほどに報道性がある必要もない。後に週刊現代(講談社)、週刊ポスト(小学館)等の出版社系や、週刊朝日、サンデー毎日等々新聞系の週刊誌が続々誕生し、戦国時代となって部数は減少傾向になってしまう。

こうした中で独自取材によるまだ記事化されていないスキャンダルを掘り起こす事で、政治家や芸能人、スポーツ選手、著名人が引退や謹慎に追い込まれるケースが出始めて、このスクープは「文春砲」と呼ばれるようになった。そうした社会風潮が週刊文春の部数を後押しするようになったけれど、相変わらず誌面構成は旧態依然の退屈なもので、ほとんど意味のない読み物やコラムが溢れている。そうした伝統的な誌面作りを脱却できない限り、部数を伸ばすためにはよりスキャンダラスな内容で読者を引き付ける以外にないのだろう。ただし他誌のような安易なヌードグラビアを掲載しない編集方針には好感が持てる。その意味では新潮と文春は他誌と比較しワンランク上のグレードを維持していると言えなくもない。

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文春砲

さて、文藝春秋や文春についていろいろ勝手なことを書いたけれど、今回の週刊文春の木原官房副長官絡みのスクープ記事は、その内容からして一介の週刊誌レベルが扱えるものではなく、一件の不審死事件を通して、政府や警察に対し社運を賭けて真っ向から闘いを挑む、メディアとしての本来の姿を鮮やかに見せるとともに、堕落しきってしまったメディアの在り方を世に問うチャレンジでもある。

今の日本の病巣でもある「なれ合い関係」を否定し、自らの利害に影響を及ぼさぬ弱者と見るや徹底攻撃するいじめの構造を否定し、腐った権力構造に向かって強烈な一撃を喰らわせている、文字通りの特大文春砲炸裂である。並行して報道されているビッグモーター詐欺事件を見れば、メディアの欺瞞をまざまざと見せつけられる。経営陣を糾弾し、組織ぐるみでの犯罪を証明するために、社員、元社員から得た証言ばかりを垂れ流し続け、自らの取材は「街路樹を刈らした除草剤散布命令」を批判する程度のバカバカしさ。それを全メディア総出で連日行っているのである。

自らは大した取材もせず、経営陣の会見を批判し、社員の告発を拾い集めて同社を批判するだけであって、確かに幹部の命令や組織の雰囲気で不正行為に手を染めた社員が多くいる一方、6000名の社員の多くは生活を掛けて真面目に勤務しているという現実を全く無視している。そして保険請求で不正があったと報道するならば、カウンターパートである損保各社の責任を同時に追求するのが筋ではないかと思う。結局取材力がないからそれが出来ない今のマスコミ、マスメディアの報道そのものを鵜呑みにすることこそナンセンスであるということを、文春の木原問題報道と比較すれば、容易に理解できるのではないか!

その意味でも今回の文春砲は、日本のメディアの在り方そのものにも挑戦状をたたきつけているように見える。如何せん相手は岸田内閣の要と言える最重要人物である木原官房副長官と自民党そのものであると同時に、政治権力に忖度し安易な政治の介入を許し、その組織のトップが平然と定例記者会見で嘘をつくという警察組織の在り方そのものだ。一見関連性がないように見える木原官房副長官夫人の、木原氏と出会う前の前夫の変死事件・・・。この事件の初動捜査を巡る警察の欺瞞、そして再捜査で明らかになった数々の事実によって「殺人事件」と断定し、家宅捜索や重要参考人聴取が行われたにもかかわらず、突然の捜査中止命令・・・。

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「事実は小説よりも奇なり」以上!

「事実は小説よりも奇なり」と言うが、この16年前のミステリーはそんな生易しいレベルではなく、そして世間でよくある一般人の殺人事件が16年の時を経て現政権の屋台骨を大きく揺るがし、腐った警察機構の膿を絞り出し、現代のマスメディアの在り方に疑問を投げつけるという壮大な試みだ。

そして亡くなった前夫のご家族の記者会見に続き、明日(28日)には木原夫人の取り調べを担当した元警視庁捜査一課殺人一係警部補、佐藤誠氏が記者会見を行うという。佐藤氏は今回の文春砲において木原夫人の前夫の変死事件を殺人と断定し実名告発したその人である。これが今回の木原事件の日本社会への発火点になる可能性が濃厚だ。

その会見では、佐藤氏が抱えていて、木原夫人も十分に承知している大いなる秘密が明らかにされる可能性がある。事件現場には死亡した前夫である安田種雄さん、夫人の浮気相手であったY氏、そして種雄さんの父親が偶然の悪戯であるがごとく居合わせた。が、佐藤氏はその現場には第三の男が居た可能性があると・・・。

今までの三度に渡る文春砲でも今回の第4弾でも語られることのなかった第三の男の存在、そしてこの事件の第二幕と示唆する記事のエンディング・・・。

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文春取材班はこの第三の男と目される人物にも取材を敢行しているが、そのやり取りのなかで

「こんにゃろう、テメー!やってもいいんだぞ、こんにゃろう。お前ら三人くらいどうってことねえんだ!昔、何やっとったか知っとんのか!・・・ボクサーだよ。ボクサーだけじゃねえぞ。喧嘩は得意なんだよ」

という返答が返っていたと記事中にある。

木原夫人の父親は元警視庁警部という警官であり、法政大学時代にはボクシング部で活躍した経歴を有している・・・。

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文春を突き動かしたもの

個人的に安田種雄さんを殺めた犯人を推測するつもりもないし、それは明日以降明らかにされると思うけれど、現時点では罪に問われてはいない。なぜなら種雄さんの死は変死扱いだからだ。しかしこの時点で重要なのは、2006年の事件から今日までの登場人物の繋がりであり、繋がり方ではないかと思う。登場人物のそれぞれの人生が折り重なって関わりを持つことで、これが岸田政権を揺さぶることになるかもしれないとしたら・・・この因果関係は一体何なのだろうと思う。

そして忘れてはならないことは、今回の文春砲のために情報を提供した大物の存在だ。このネタを提供された時、文藝春秋社は事件として取り上げることに大いに躊躇しただろう。当然である。下手をすれば歴史ある会社そのものがすっ飛ぶ可能性も大いにある案件。だがそれでも、今回の記事掲載に際し、週刊文春の総力を挙げて取材することを決意させたものは一体何なのだろう?

日本の文壇を牽引してきたという自負なのか、編集者の意地と記者のプライドなのか・・・。腐りきった日本のメディアにあって現状を大いに憂い、損得を無視してもメディアの原点回帰を果たしたいという思いなのか・・・。

文春砲によって風穴を開けられた、政治や警察機構を見てみたいという思いが日に日に強まっている。