米国の属国としての日本(2):今なお続く敗戦国待遇

米国の属国としての日本(2):今なお続く敗戦国待遇

これまで岸田首相ほど、日本が米国に対して隷属している事実をあからさまにした首相がいただろうか?日本は太平洋戦争に負けて米国の支配下に置かれ、以来教科書的には1951年サンフランシスコ講和会議で、主権回復を果たしたとなっている。

だがサンフランシスコ講和会議とは実質上、第二次大戦の連合国の対日講和会議だったわけで、現実には日本と連合国の戦争状態は国際法上継続していた。日本の主権回復を認めなければ、戦争の賠償交渉が出来なかったこと、日本の占領下にあった領土の返上が出来なかったこと、が主な理由で、日本国内に独立の機運が高まり、独立運動が発生してその結果連合国が主権回復を認めたというものではない。

またソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産圏3国は、独自の領土的主張を持ち出したため会議の趣旨とは異なるという理由で却下された。その中に「日本にはいかなる国の軍事基地を置かない」という主張も含まれていた。

日本人は6年間の米国占領時代を経て、現行の日本国憲法の制定や米国流民主主義教育によって、自虐史観が叩きこまれ、戦争責任を追及され続けた結果だった。僅かに6年、戦争に加担し戦犯とされた軍人は極東軍事裁判で捌かれ財閥企業は兵器製造が出来ぬよう解体された。GHQ主導で徹底的な法改正も行われ、日本社会からまずは保守派が排除された。次に1951年までにGHQは日本国内で徹底的なレッドパージを行い共産主義を徹底的に排除した。つまり、日本社会から思想的悪抜きをし、米国隷従の下地を作ったと言え、米国流の民主主義、平等主義こそが、日本のたどる道であると、教育等あらゆる手段で刷り込まれた。

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戦後賠償や駐留軍問題は、あくまでも二国間の協議にゆだねられる、と決まり主権回復を果たしたとはいえ、実態は米国の占領政策の継続を吉田首相をはじめとする日本政府が飲まされた会議であったし、日本はその後今日に至るまで、実質的な米国の隷属国家(植民地)として扱われることになる。米軍駐留は直後に日米二国間条約として日米安全保障条約が締結され。1960年に改正され、現行の形になる。

日米安保もまた米軍の駐留に関する条約であって、この条約に米国の「日本防衛義務」は記されていない。つまりは、日本有事の際に米国が日本のために戦うというのは、政治的な一方的解釈に過ぎない。

日本は現行憲法、現行安保条約とそれに関連する日米行政協定、日米地位協定等によって主権国家でありながら、米軍の領土内駐留を認めているという極めて特異な国家なのだ。日本は対立する米ロ間、米中間関係における軍事的な橋頭保であるとともに防波堤でもある。故に米国は東アジア、極東での有事の際、米国の利害(権益)が脅かされる状況に至れば、日本をフル活用することは、初期からの想定事項に過ぎない。

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日本の歴代首相は、こうした現実を忠実に継承することが求められた。首相に就任して真っ先に行うのは米国訪問であり、新首相になっても従来からの日米関係は変わりません!と誓うことが求められた。日本経済が奇跡の復活と言われる成長を開始し、米国への輸出によって米国企業を脅かすようになり、高度経済成長を実現した反面、価格競争力を失った米国経済は厳しい後退期に入るわけだが・・・。

1972年発足した田中角栄内閣は、同年電撃的に訪中し、日中国交正常化を果たした。この訪中は米国ニクソン政権の許可を得ずに先走ったものであり米国にとっては屈辱だった。また翌年には日ソ間の戦後講和を目指して訪ソしブレジネフ書記長と会談したことも、米国にとっては強烈なスタンドプレーだった。田中角栄は「米国一国に偏重することは日本の未来はない」「日本は主権国家であり米国の植民地ではない」という信念を持っており、中国・ソ連との講和を急いだことが、米国の怒りを買ったと言える。

1976年、当時苦境に陥った軍需産業大手のロッキード社は、初の民需旅客機「トライスラー」を開発し、経営危機を乗り切る目玉とした。その結果、世界各国に賄賂攻勢を行い、そのことが米国上院・外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で発覚。これに先立って金脈問題で首相を退陣していた田中角栄の「総理の犯罪」を追求する材料にするとともに、米ソ交渉での屈辱を晴らそうと躍起になった。そして田中とは異なり米国服従を誓った時期首相・三木武夫に徹底した追及を命令した。

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軍需企業であったロッキード社は、米上院・チャーチ委員会の公聴会で、別段罪の意識もなく各国柄の賄賂を証言していることから、当時の兵器輸出ではごく当たり前の慣行だったと言える。だが米国は、日本が属国としての地位を田中が放棄するのではないか?という懸念を持っていて、「そんなことは許しはしない」と言うのが、政治的感情であったことは確かだった。

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日本国民にとってはまさに希望の星であった田中角栄。尋常小学校も満足に通えない極貧のなから裸一貫で成り上がり、遂には総理にまでなった戦後最大のスター政治家。金脈問題で退陣はしたものの、絶大な人気を誇った首相であっただけに、さらにロッキード汚職という金脈問題で起訴されながら、最大派閥の領袖として陰で実験を握るという日本政治に悪しき事例を作ったと同時に、自民党は派閥政治が全てという構造を作り出したという悪しき側面もあった。以来、政治資金問題で派閥解消に至るまで、自民党は派閥の理論、数の理論が全ての政党になり下がった。

三木武夫ー福田赳夫ー大平正芳ー伊藤正義ー鈴木善幸ー中曽根康弘。田中失脚後の歴代総理は大平正芳急逝後の臨時を務めた伊藤正義以外、米国服従の姿勢は変わることはなかった。そして1983年、中曽根康弘が内閣総理大臣に就任する頃には、日米貿易摩擦は頂点に達していた。中曽根首相は米国より「日本市場を海外企業に開け」のとの要請を受けて、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行ったが、これらの分野は米企業にとって参入障壁が高かった。

その時、1985年8月、日航123便の墜落事故が発生した。当時中曽根は米大統領ロナルドレーガンと親密な関係を築いていた。その事故の僅かに1ヵ月後、ニューヨーク市のプラザホテルで円の大幅切り上げを承認する結果となり、日本は急激な不況に追い込まれると同時に、日米貿易摩擦は一気に解消へと向かった・・・。

その後米国の日本支配は、あからさまに強化されてゆくことになる。