気持ちの整理が出来たから骨になった親父に思う。
- 2025.01.29
- 放言
まだ骨になった親父は、居間のテーブルの上で、還暦の時の遺影とともに置いてある。この家には仏壇を設けなかったので、戒名を授かった親父の居場所がない。供養のために香を焚くこともないし、生前好きだった森永キャラメルと男梅を添えておくだけ。
長男がこんなことでどうする、と自分でも思うこともあるけれど、親父の思い出は溢れるほどにいつも俺の心を満たしているから・・・。
親父の背中を追いかけるように育ち、いつしか夢を共有するようになったけれど、親父は決して良い親ではなかったし、俺はいつも親父と正反対の方向を目指していた。夢は同じでもやり方は180度違っていたから、常に言い争いが絶えなかった。
親父は、大学に進学できなかったことを常に悔やんでいるようだったし、大卒の中に入り込むことを拒んでいたような気がする。そのことが生涯の劣等感になっていたのだろうと思う。
俺はもちろん大学に進んだけれど、そのことを喜んでくれたという実感は持てなかった。親ならば嬉しくないはずはないと思うのだが、そういう俺だって娘が大学に合格しても特別な感情など持てなかった。ただ努力を称えるよりも人生の通過点に過ぎないと思っていたから。
親父は確かに学のない男だった。事業が高度成長とともに拡大しても、それがどういう意味なのかを見出そうとはしなかったし、金回りが良くなったことを普通に謳歌していたようだったが、だからと言って傲慢な態度など他人にも家族にも見せることはなかった。
誰からも嫌われるような面は微塵もなくて、それでも自分に世辞をいう人間を必要以上に愛でていた。だから何度も騙され、裏切られた。けれども親父自身、気付かぬように自然に家族を裏切り、思いやりを無くし、遊興に浸っていた。
そんな親父の姿を見ると、人生楽しまなければ嘘だ、と言葉なく語っているようでもあり、でも破顔のなかにも寂しさが見えたよ。還暦に近付くにつれ、仕事からも家庭からも逃げるようになり、毎晩行きつけの店で深酒をしていた。俺が子供のころから時々朝帰りがひと月ほど続くことがあったけど、そんな時の夫婦の会話はトゲトゲしく、家にいるのが嫌だった。
そういう家庭が嫌で、俺は結婚を機に家を出た。
30歳半ばで親父の事業を継ぐこともなく、自ら会社を興し親父から距離を置いた。時々会っても話すこともなく、いつしかお互いをけなし合う関係になっていた。俺は親父の生活態度を詰り、経営を批判したけれど、その時にはもう倒産寸前だった。
そうなって親父は愛人宅に入り浸り、苦難から逃げ回っているような状態で、不渡りの出る日の早朝に親父が訪ねてきて、後は頼むわ、と言い残し姿をくらました。家族を捨て会社を捨て、僅か500万の現金を懐に抱え、経営者失格、の烙印を押されることから逃げ回った。50億の負債を放り出しての逃亡だった。
親父を探して約2年がたった頃の夏、とある温泉の安宿でひっそりと息を殺すように暮らす親父を見つけ出した。情けなかったのだろう、不意に現れた俺に「何しに来た」と毒づいた。惨めで、悲しくて、カップ酒を震えながら無言で飲み続ける親父に初めて手を上げた。息子に殴られた痛さと卑怯な姿を見られた辛さに耐えかねて、親父は嗚咽した。
そんな親父を容赦なく詰って、滞っていた支払いを済ませ、安宿を出た。運転中に斜陽が刺すように視界を遮っていたけれど、溢れ続ける涙のせいでもあった。
それから約1年後、親父はひっそりと地元に戻った。ワンルームの安アパートの前には、ボロボロの軽が止まっていた。以降、その部屋での一人暮らしは10年間続いたけれど、最後の4年間は歩行困難となり、介護申請をしてデイサービスを受けた。白内障、腰椎狭窄症、せん妄、膀胱癌、前立腺癌、大腸癌と85歳を過ぎる頃は病の連続で、入退院を繰り返し、最後の2年間は特養で過ごした。
足かけ10年、毎週親父の様子を見に行き、5年間は介護をしながらあらゆる介護サービスを頼んだ。一度有料ホームに入れたけれど、なじめなくて戻ってしまった。人と会うこともほとんどなく、ただ朽ちるのを待つだけの生活だったと思う。
最後は叔母の入所する特養に入り、癌治療をしながらの日々を2年間過ごした。「親父、もう少しで90歳だぞ」というと、温和な表情を浮かべるようになった。大好きな森永キャラメルと珈琲と果物を差し入れるのが毎週の習慣になった。
本当に親父には苦労させられたと思うし、事業の後始末は足掛け15年間の時間を要した。債務処理の愚痴はいまさらどうでもいいけれど、去年の初めから親父の詳細なヒストリーを作ろうと思い立ち、それが曾祖父にまで遡ることになった。なかでも親父は一家で昭和14年の終わりに満州国に渡ったことが分かった。所謂軍属として祖父は関東軍から電気工事を請け負っていた。
昭和15年の終わり頃、戦争が始まるという情報がささやかれだし、一家は太平洋戦争開戦前に内地に引き上げていた。そんなことは全く知らず、また親父に体験談を聞くこともなかったから、ちょっとした驚きだった。
でも、痴呆が進み、改めて親父にそのことを聞き出すことはできなかった。
結局のところ、親父は誰にでも好かれる温和な人で、俺自身苦難の表情を見ることはなかったと思う。努力も遊びも、常に柔らかな姿勢だった。ただし、俺と向き合い時だけはお互いに厳しい表情でぶつかっていたから、そんなことを思う暇はなかった。
人間は善悪表裏一体の存在だ。けれど俺は常に親父に善のみを求め、悪を見ようとしなかった。晩年になって俺自身、自分の人生も振り返れば、まさに清濁併せ持つことを改めて思い知らされる。いま、激烈な批判に晒されている中居だって善良な部分はたくさんあったと聞く。
そうしたことを乗り越えてなお、人間としての何とも言えない魅力が親父にはあったと思うし、その魅力に憑かれた、もっとも親父を理解した人間は俺だったのだから、親父は俺を認めてくれたと思う。だからこそ、隣の居間で骨になっても、温和な表情を浮かべて、見ているだろうなと。
供養もへったくれもなく、お互いが人間としてぶつかり合った日々の思い出こそが供養の代わりと思ってくれてるだろう。親父は素敵な人間だったよ。
-
前の記事
NVIDIA株の急落は強烈過ぎる一撃:1月28日(火)後場 2025.01.28
-
次の記事
NASDAQのチャートは崩れていないけど:1月29日(水)前場 2025.01.29