【あいちトリエンナーレ2019】の根本的問題点を指摘する
- 2019.08.11
- 放言
何かと話題の【あいちトリエンナーレ2019】です。芸術監督の津田大介氏の企画展「表現の不自由展・その後」に対して批判が殺到し、実行委員会会長である大村愛知県知事の判断で開催は中止されました。
この「表現の不自由展・その後」の開催については様々な批判が噴出していますが、多様な価値観が交錯する「現代アートの難しさ」を【あいちトリエンナーレ2019】の関係者が理解できていなかった事が根本的な問題点を指摘しておきます。
企画展「表現の不自由展・その後」に対する批判の数々
「表現の不自由展・その後」は、様々な批判や脅迫などが相次いだために、実行委員会会長の大村知事と芸術監督である津田大介氏の話し合いで中止を決定したわけですが、その理由を大村知事は定例会見で「ガソリンを散布するという脅迫メールが届いたので安全安心を第一に考えた」としました。
8月1日から展示が始まった【あいちトリエンナーレ2019】ですが、企画展「表現の不自由展・その後」は3日には中止に追い込まれました。その後批判や議論は以下のような広がりを見せています。
煽情的な作品の展示
まず真っ先に巻き起こった批判は、行政が公金を投入して極めて煽情的な作品を展示し、国民の象徴である昭和天皇や英霊を侮辱し、虚偽である慰安婦像をあたかも事実であるがごとく突きつけたことに対する感情的なものです。
特に8月15日の終戦の日を目前にし、国民感情を逆撫でするようなタイミング(津田氏の狙い?)でもあったことから看過できないとする批判に至ったこと、そして貿易問題で対立関係にある日韓関係の反日の象徴を展示するのは容認できないというわけです。
なかでも実行委員会会長代行である河村名古屋市長は、実行委員会会長大村知事に対し、抗議文を送っています。
芸術論争
さらに「表現の不自由展・その後」に出展された作品が、芸術作品か否かを問題にする声も巻き起こりました。行政が公金で主催する「国際芸術展」であるからには、最低でも「芸術作品」を展示しなければならない、という批判です。
しかし、そうなると「芸術作品とはなんぞや?」という定義付けが必要になり、議論は途端に暗礁に乗り上げてしまいました。
「文芸・絵画・彫刻・音楽・演劇など、独特の表現様式によって美を創作・表現する活動。またはその作品」
といったオーソドックスな表現をすれば、「表現の不自由展・その後」に出展されたものは、どれも当てはまりません。
しかし現代アートにおいては、そうした定義は当てはまらなくなっているのも事実で、深く追及してゆくと出展作品を仕分けることが困難になってしまいます。現代アートにおいては芸術は「美を創作・表現する活動。またはその作品」とは限らないからですね。
憲法論争「表現の自由」と「検閲」
大村知事は中止後の会見で、河村名古屋市長が申し入れた書簡に対し、自身の憲法解釈を披露しました。長いので要約すると
「(河村市長の行為は)憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか。憲法21条には”集会、結社および言論、出版その他の表現の自由は、これを保障する”、”検閲はこれをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない”と書いてある」
「公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う」
「税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。まさに公権力を行使されている方が、”この内容がは良い、悪い”というのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたない」
と言うことになります。
しかし、この発言に対して一斉に反論が集中しました。なぜならば、もしも大村知事がそう理解しているとすれば、憲法違反をしているのは「表現の不自由展・その後」を中止した実行委員会会長の大村知事自身だからです。
表現の自由を保障するのは大村知事ご自身であって、自らが決断して中止したのも大村知事ご自身なのですから。
また「検閲」とは民間に対して行政が行うものであって、今回の場合には当てはめることはできません。
こうした大村知事の不見識な発言によって、憲法論争は決着を見たような気がします。
芸術監督・津田大介氏の資質
津田大介氏に関しては、「芸術が分からない人間が芸術監督とはおこがましい。だから今回のようなヘイト活動、政治活動のような展示をしてしまう。このひとは左翼活動家だ」とする辛辣な意見が批判の主流を占めています。
この「表現の不自由展・その後」という企画展には個別の実行委員会が作られ、そのスタッフが左翼的な活動をしているメンバーが名を連ねていることで、この企画展が、「ヘイト活動、政治活動」と指摘されるのも、自然な成り行きだと思われます。
そしてそうした行動にでたことも、極めて計画的、意図的なものであって、津田氏自身が自ら「芸術作品ではない」という旨の発言を開催前にしていることも取り沙汰されています。
実行委員会会長・大村知事の任命責任
実行委員会会長・大村知事の資質に関しては、先に記した憲法論争でもその一端が伺えますが、津田氏を芸術監督に迎えることを決断したのも知事であり、事前の打ち合わせで「尖ったものにしてくれ」と暗に「過激な出展を示唆」し、その結果今回の企画を津田氏は探してきたという経緯になります。
そして今回の企画展に対し、許可を出したのも大村知事であったわけですから、津田氏に関する問題点はすべて主催者の実行委員会会長の問題点であり責任なのです。
「任命責任」という議論は、「実行犯がいてその犯罪を教唆した」という考え方に近くなります。つまり任命した責任は大村知事にあるわけですが、主犯は芸術監督の津田氏にあるとしているわけですね。
もちろんこうしたイベントでは芸術監督が企画やコンセプトの立案、作品の選定などほぼ全権を持つわけですが、その責任はトップにあるのが当然です。任命責任を追及するのであれば、大村知事自体の責任を追及すべきです。
何が芸術(アート)で何がガラクタか
芸術に対する価値観の変遷は、現代においては極めて多様な価値観へと変貌していると言えます。
たとえば欧米の近代美術館では、到底芸術とは思えないような作品に何億円もの価値があるとされている作品が少なくありません。
それらは一昔前には芸術ではなくて「ガラクタ」と評されるものばかりでした。
現代の芸術である以上、煽情的なのは当たり前の世界であって、政治色を帯びた作品も一定の評価を受けるものが増えてきました。
ある人から見たら「ガラクタ」であっても「芸術」と解する人が居るのであれば、その価値観を無闇に否定しないのが現代における多様性です。
そうした現実を踏まえて、芸術論争は行われている時代なのです。従って、そうした多様な価値観を認めれば認めるほど、作品の評価は難解になります。
現代アートは難しすぎて(行政の)手に負えない
なので、芸術の価値観というのは、行政が押しつけるものではなく、自由な民間の活動によって時代とともに形成されるべきなのだと思います。
まして、「現代アート」主体の国際芸術展である「なごやトリエンナーレ」は、国際芸術展としては最も難易度の高いものです。
そこで、行政自らが選定した作品を、行政が自ら中止をしておいて、批判した側を「表現の自由を保障した憲法違反」と揶揄するという大失態を演じてしまったわけです。
無知の責任
そもそも行政(主催者側)が理解できていないものを展示して(市民に対して)「これが芸術です」と言うこと自体が大問題なのです。
今回だけでなく、過去のトリエンナーレも恐らく同様のジレンマを持ち続けながらの開催だったのではないかと思います。
今回の騒動では、大村知事を中心とした行政(主催者側)に誰一人芸術を一定の基準をもって判断できるひとが居なかったと思います。
世界でももっとも難解な芸術分野に対し、素人が税金を使って「お祭り」をやろうと言う、安易な企画が「あいちトリエンナーレ」だった。そうしたイベントを開催することが、政治であり行政であるという極めて滑稽な感覚が、今回の騒動とともに白日に晒されたと言えるのではないでしょうか。
そして最大の被害者は、煽情的な作品に強い憤りを感じて批判をした人、と言うよりも、戦争や皇室、そして日韓問題に関しての左翼的展示を見せられた人でもなく、芸術であるのかガラクタであるのか分からない人間によって「これが芸術と言うものです」と意味不明の価値観を押し付けられた国民です。
関係者すべてが世間を扇動しようとした結果
今回の騒動の根本原因は「芸術に対する無知」であると思いますが、そこに大村知事、津田大介氏だけでなく行政も作家も、そしてメディアも含めてすべてが社会を扇動しようとしたことも大きいいです。
大村知事を含めた主催者は、このトリエンナーレに対する動員数を増やしたいと思い、その一心で多少(世間を騒がせるような)過激な企画を思い切ってやろうとした。
恐らくメディア側からの推薦を受けた津田氏は(大村知事の無知によって)芸術監督という大役に滑り込むことに成功したら、当然世の中にインパクトのある仕事をして自身の地位を確立したいと思うはずです。
そうして右傾化が叫ばれるなかで、左翼的なフレーバーは最も目立ち、そして「表現の自由」という極めてありふれているが最も効果の高いキーワードで過激な展示をすることで、最大の注目を集めようとした。
そこに左翼的な朝日新聞や中日新聞が参戦して言論を煽る。当然保守派は真向から迎え撃つ。
気がつくと芸術論争は吹っ飛んで、個人攻撃に終始している・・・。それらはすべて、自己の利害に基づく扇動的な行動の結果と言えます。
行政の仕事ではない
芸術の価値観を生み出すのは行政の仕事ではありません。まして、(あいちトリエンナーレは)政治的な活動の場でもないわけです。
無知な行政が芸術や文化を語りたいがためにこうしたイベントを開催し、表現の自由を守るという大義名分のもとに、左翼的な活動の場を提供しているだけ。
そうした芸術や文化は民間が熟成させなければ意味がないわけです。しかし政治家(や行政)は必ずこうしたアカデミックな事業をやりたがるのです。
民間が主催してやるのならば、助成はできます、位がボーダーであると思うのですが・・・。
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