女子プロレスでジェンダー平等の意味を考えさせられる

女子プロレスでジェンダー平等の意味を考えさせられる

自分はもう完全にオヤジ領域というか、昔で言えば老人域に突入していて、来年には年金をもらえる年齢になる。でも信じられないかもしれないけれど、うっすらと僅かな、おぼろげの記憶で、地方都市の駅前にある「街頭テレビ」を見た記憶がある。昔は各家庭には当然のことながら、テレビなるものはほとんどなかったから、主要な駅には屋外にテレビが設置され、そこには黒山の人が集まっていた。オヤジやオフクロ、そして爺さん婆さんも一家総出で銭湯に通う。その道すがら駅前を通ると必ず街頭テレビを見た。

その時の一番人気は力道山のプロレスだった。その試合を見た記憶・・・恐らく自分の中にある最も古い、幼い頃の記憶ではないかとおもうけれど、確かに力道山は闘っていた。

なので、小学生の内は結構なプロレスファンとして過ごしていて、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の試合は欠かさず見ていたし、それが講じてボクシングも好きになったけれど。

昭和30年代から40年代の前半にかけて、日本は今では想像できないほどの「昭和の時代」だった。敗戦から僅かに10年、20年しか経っていない時代を今の人はイメージすることは出来ないだろう。小学生になるとオヤジがカラーテレビを買い込み、今度は夕方になると近所総出で視聴会をほぼほぼ毎日開催する。それでも、当時は風呂もない貧乏アパート住まいだったのだが、なぜかカラーテレビはあった。

勿論ご近所の子供たちはプロレスなんか興味はなくて、手塚治虫の「ジャングル大帝」や「悟空の大冒険」の方が面白いに決まってるし、それは当時数少ないカラー放送だったからね。でもあっという間に各家庭にテレビが普及したりして視聴会は無くなったけれど。それからは我慢していたプロレスやボクシングの試合を好きに観れたけど、だんだん成長するにしたがって、こっそり不良の音楽と言われたグループサウンズの音楽番組とか見たりしてね。6歳年上の幼馴染の従弟の女子が、タイガースとかオックスとかに熱狂してるのを見ていた影響だと思うけど。

というわけで、プロレスに対する熱狂は中学生になるとピタリと止んだけれど、後年時々女子プロレスを見るようになってね。当時は完全に色物で、まるで前座のミゼット(小人)プロレスと同じような扱いだったのが、赤城マリ子の登場で徐々に人気がでてきて、マッハ文朱で一気にブレイクした頃かな。

その後ビューティーペアとかクラッシュギャルズといったほぼほぼ芸能路線になってからは、嫌気がさしたけど、同時にダンプ松本とかブル中野という悪役の登場で面白いからまた少しは観たりしてね。

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もちろん「プロレス」という言葉は、今では「演出された、筋書きのある、結果が決まってる」という意味でつかわれたりするけれど、最初からプロレスとはそういうものであって、一種の格闘技ショーであり興行だったわけだからね。選手も当然そのつもりで闘っているわけだけど、だんだん感情的なものが入り乱れてくるから、本当に痛そうな試合が多くなってきたし、事故も多くなってきた。遣り過ぎたら死んじゃうしね。

そういう危ないショーだから当然、それに耐えうるだけの体づくりも必要で、トレーニングは恐ろしく過酷なんだろうけど。試合もどんどんエスカレートしてきて、危険な技をかけあうことがプロレスの生きる道という風潮になった。本気でやるとどうなるか?という視点から総合格闘技とかK1とか、今では不良同士が殴り合うブレイキングダウンとかやってるけど、あんなのは米国に行けばダウンタウンの彼方此方でみれる程度のもの。タトゥーだらけのハングレが殴り合うなんて面白くもなんともない。

それならば、女子プロレスの方が面白いと感じるし、ブル中野や神取忍が好きだった。というか最近YOUTUBEをみんなやるようになって、試合よりも面白いし、彼女たちの人間性が好きなんですよ。プロ野球選手も引退してYOUTUBEをやるけれど、ペラペラで嫌になるけどね。

そんななかで、里村明衣子という女子プロレスラーが好きで、なんというか時々どんな世界でもポッと逸材が出てくることがあるけれど、彼女はまさにそんな感じのレスラーなんだなと。プロレスにはプロレスの流儀というか暗黙のルールがあって、その中でプロレスらしい試合をしたならば、彼女はNo.1かな、とずっと思っていた。ところが女子プロレス世界も例外なく会社が出来ては潰れての繰り返しでそのなかで苦労して、活躍の場を海外に求めた選手と言う意味でも、そして海外で認められたという意味でも、ブル中野と里村明衣子は特別な存在だと思う。

ブルは単身米国に渡りWWEという団体(今ではプロレス興行の最大団体)のなかで、タイトルを奪取しているし、里村は英国にわたりなんと男子団体のなかでチャンピオンになったという・・・。前置きが随分と長くなってしまったけれど、今では米国でも英国でも、そして日本でも興行の中に男女レスラーの対戦を組むようになった。そこに持ち込まれているのが「ジェンダー平等」という考え方ですよ。

ジェンダー平等というのは本来男女の能力差が無い場面にもかかわらず、歴史的な観点から男女差別が存在している分野の差別をなくす、ということだと思うし、そういう意味では最初から性別を理由にした差別はなくそうということ。その趣旨はよく分かるつもりで、俺も昔会社をやっていたころ、男女雇用機会均等法が出来て、地方自治体や商工会議所の主催で盛んに研修会が開催された。その時にいろいろ考えたり、勉強したりして、社内でもいろいろ議論した結果男女の給与差を完全撤廃した。同一労働同一賃金というのを25年前に完全に実現した。

でもね、そうなると、女性社員にとっては結構仕事が厳しくなったと思う。つまり女性だからという理由で生じるある意味では社会や組織の「寛容さ」がどんどん薄れていく。結果としてどんな仕事でも必ず現れる男女の体力差を理由にできなくなってしまうからね。

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経営者としてはジェンダー平等は、業務効率を上げるのにはツボに嵌ったものだった。賃金を引き上げても、組織内の競争状態がそれを打ち消して余りあるものになる、ということを身をもって体験することが出来た。でも、男女の生理的な差というのは埋まらないわけで、それは女性にとっては不利な条件であることには変わりはないし、そのことに不満を言うような男子社員は居なかったものの、女性にとっては厳しさが増したのだと思う。

もっともそうしたことを克服するために仕事面で工夫する女子社員も現れたし、実に様々な相談を受けたりもしたなかで、頼もしい女性社員も現れた。彼女は従来男子社員がやることになっていた業務の一切を普通にこなしたし、生理痛が厳しいにもかかわらず全国キャンペーンに連泊で出掛けた。小さな会社ではあったけれど、部門のリーダーを務め、来年は取締役に昇格しようと考えていた。

そしてその旨を打診したとき、彼女は返事はNOだった。理由ははっきりと「妊娠したので子育てをしっかりやりたいから」と言うものだった。なんだかんだと言っても妊娠出産子育てでは女性にしかできないことが山ほどあるし、だからこそ余計にそのことを蔑ろにしないで、手抜きナシにやり遂げたいので、と言うものだった。

それを聞いたとき、感心というか感動的でさえあった。

「子育てをしながら仕事もするし、どちらも手抜きナシにやる自信がありません。まして家庭や親族と折り合いを付けながらだと、出来るとは思えないので。年末までには辞職させてください」

「でも一段落したら復職しては?」

「いろいろ事情もありますので」

そう、ジェンダー平等もいいけれど、そもそも人間は一人ひとりおかれた環境も千差万別で、決して平等なんかではないのだと改めて思った瞬間だった。

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女子プロレスラー里村明衣子がTBSかなんかの番組で、「ジェンダー平等」について語っていた。いかにも左翼的な司会者とどこかの大学教授らしきオジサンが、巧妙に里村明衣子から「ジェンダー平等」に対する見識を引き出そうとしていた。彼女が英国の男子レスラーの団体でチャンピオンになったからだろう。彼女がいまプロレスブームに沸く英国の団体に招かれたとき、仙台女子プロレスという弱小団体の経営者として日本の状況を何とか打破したい、という気持ちだったのは、他のトーク番組で聴いていた。

要するにプロレスというショービジネスの世界において、ジェンダー平等を売り物に男女の試合を売り出す、と言う完全にビジネスライクなものであって、男女が本気で試合したら女子が負けるに決まってる。日本でも米国でも男女の試合が多くなったけど、演出を楽しむショーであって格闘技の試合としては、成立しない色物である。

そんな中で里村明衣子は男子の厳しい技に耐えられるだけの体力と技能を鍛えていたから、今までの基準以上に男女の試合が成立してしまったということだけど、あくまでもプロレスというエンタメショーのなかでのもの。それを相当な説得力をもって成立させたという意味に限ってジェンダー平等と言えなくもないけれど、そんな無理筋で番組を作るTBSにはあきれ返る。

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実社会でのジェンダー平等を必要以上に喧伝しても本質的な性差は、決して排除することはできない。また、逆にそれを理由にした差別には納得できないし、歴史的背景も正しかったとは言えない部分もあることは認めなくてはいけないけれど、里村明衣子が男子レスラーに勝ってチャンピオンになったこととは全く次元の違う話だ。

ちょっと昔では、例えばスエーデン国内のボルボの自動車生産ラインでは女性労働者が8割を超えていた。自動車の組み立てなどは重労働で、女性工員の腕は筋肉粒々になるくらい過酷な作業。でもその理由はジェンダー平等ではなくて、男性がドイツや英国、イタリアに出稼ぎに出てしまって、国内には女性の働き手しかいなかったというのが実情だったから。日本でも女性の社会進出が増えたけれど、それはもう低賃金であることと働き手不足が、それを促進したという理由が大きい。

良質な労働者も不良外人も選別することなく無差別に受け入れて、結果として今日本の治安はどんどん悪化してる。高齢化が進んだ日本には空き家が急増したが、片っ端から外交人窃盗団が空き巣にはいっていて、件数が多すぎて警察は手も足も出ない状況。関東地区ではその数が数万件に達しているという情報もある。これがなぜ社会問題にならないのか不思議で仕方ない。

また再エネを象徴である、太陽光施設での銅線の窃盗や、エアコンの室外機の窃盗など、収拾がつかないレベルにまで達して、その多くは価値観の違う外国人グループであると言われている。

その象徴的な例が川口市のクルド人問題なのだ。川口ではクルド人たちが暴動まがいの行動をして、それを阻止しようとしたのは反社と言われる団体の構成員たち。警察はそれを遠巻きに見ていただけ、と言うのだから、日本は明らかに移民や外国人労働者の急増で、ドイツやフランス、英国のように社会が崩壊しつつある。

一見無関係に見えるこの問題でさえ、女性が社会に進出できる環境を著しく阻害していると思う。安心して子育ても出来ないような、一人歩きも出来ないような環境になってしまえば、ジェンダー平等は絵空事にしか聞こえない。

自分の長女は東京で会社勤めだが、自転車通勤をしていた。その娘が最近は怖くて、自転車通勤出来ないと言い出して都内でありながら片道1時間近くかけて迂回通勤するようになった。最近は外国人による性犯罪が急増する一方だからだ。

政治家やメディアは社会問題を放置しながら、ジェンダー平等やLDBTを推進する。インバウンドは日本経済に大いにプラスだと叫ぶ。経済効果を主張するなら社会コストの増大も同時に試算すべきだろ。インバウンドが増えたのは、円安と低賃金のせいであって政策が上手く行ってるのではない。

政治家やメディアが言う「ジェンダー平等」はあまりに軽々しいのだ。