私的小説 師匠 斜陽編(第五章 弟子)

私的小説 師匠 斜陽編(第五章 弟子)

弟子

1

二女の美樹を、冬休みに入るとすぐに、東京に転院した女房と美羽のもとにやった。

俺は年末年始を美樹と二人で過ごす自信がなかった。クリスマス前は年明けの資金繰りのために深夜までオフィスでやり繰りを考え、24日のイヴは疲れ果てて初めて一人自宅で過ごした。テレビはクリスマスイヴを煽っていたけれど、どの番組もどことなくリーマンショックの影に沈んでいるように映った。

ライトアップで華やかな都会の街並みや豪華なツリーが、完全に社会情勢から浮いていると思った。女子レポーターが「今夜はどのようにお過ごしですか?」と街頭インタビューをして、「今夜は彼とディナーです」と若い派手な身なりの女性が答えていたけれど、背景の通行人は振り返ろうともしなかった。相変わらずテレビは薄っぺらだと思った。

 

翌日の25日、朝から財務部長の中島を社長室に呼んだ。

「中島さん、腹を括ったよ」

そう切り出すと、中島は黙って頷いた。中島は地銀の古参金融マンで二度ほど小さな支店の支店長まで努めたが、ある中小企業への融資を廻って本店とぶつかり、降格させられたという経歴を持つ。

親父の会社とは取引があった関係で、その経緯を知った親父は「中島を引こう」と言いだした。そして中島を引き抜いた上で、事業の任意整理を始めたが、最終的には10億ほどの銀行債務を整理回収機構へまわされてしまった。その後、中島に再建スキームのアイディアを持ちかけた。一連を説明した後、

「中島さん、やってもらえるか?」

と言うと、

「問題山積ですよ」

と返答した。

「中島さん、これができないようなら、銀行の支店長なんて大したことないな」

と嘯いてみせた。中島は露骨に気分を害した態度を示したが、ほどなくして、

「そこまで言われたら意地になるよ、私も」

と言って一変して笑顔を見せた。屈託のない男で、その後大いに意気投合した仲になった。

 

「社長はアイディアマンだねぇ。できないと思ってもやってみると案外出来ちゃう」

「だって、海外ではみんなやってるからね」

或る会社の債務をDESを使って株式化した。それは他の債権者にとって(名目上は100%の保全なので)ショックだっただけでなく、株主に第三者企業を加えることで一層整理回収機構からの債権譲渡をスムーズにすることになった。

「まさかデッド・イクイティ・スワップなんて知ってるとは思いませんでしたよ」

そう言って中島はしきりに感心した。
ただ、前例がないというだけで、こうした資本移動に対し法務局は難色を示したが、最後は「法的に問題ないなら、許可できないとなったら行政訴訟しますよ」と俺がねじ込んだ。

中島は他の債務整理が終わった段階で既知のスポンサー企業に、整理回収機構から債権買い取りをさせて、その後半分ほど不動産を売却して俺の連帯保証を外すとともに会社の正常化を図った。そして、その後、スポンサー企業から1億で株式譲渡を受け、子会社化した。この足掛け5年に渡る再建劇でますます信頼関係が深まった。
そして年明けから中島は子会社の処遇を模索し始めた。

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暮れの30日に美樹が女房の衣類や身の回りのものを運ぶために戻った。新居の賃貸マンションは、部屋は広くないものの2LDKで、長女の美羽と女房の部屋は確保できた。LDKが意外に広く、ソファー式のベッドを購入して美樹は寝てるといった。

「パパ、結構快適なの。私も東京行きたいなぁ・・・」

と、恨めしそうに言った。

「来年、受験で合格しなきゃな」

「パパ、ひとりになっちゃうね」

「そんなことより、ママの病気を治すことが大事だろ?」

美樹は美樹で、案じてくれているのだと思った。

大晦日に矢沢からワゴン車を借りて荷物を東京のマンションに持ち込んだ。女房は一週間の検査入院の後、マンションから通院して治療を行うことになった。毎日、嘔吐で苦しんではいたものの、幾分元気を取り戻し食事も努力してとっていた。環境が変わり、学生時代以来の東京での生活を楽しめてるといった。

「パパは大丈夫なの?ちゃんと食事してますか?」

「俺はいつも通り適当に」

「そうね。前から夜中に帰るの、慣れてるもんね」

久しぶりに4人で食卓を囲みながら女房は機嫌が良かった。

 

年末に、本社所有の株式を中島の助言で一斉に売りに出した。10月末に7.000円手前まで落ち込んだ日経平均は、年末にかけて9,000円手前まで戻していた。取引先の依頼での安定株主ということだったが、とりあえずこのご時世では文句は言われないだろうと中島は言った。

「当面は1000万ほど手元に置きますけど、あとは代表者貸付の返済で社長がとってください」

中島は窮状を察してくれて進言してくれた。1400万ほどのまとまった資金は有り難かった。そのうち治療費と当面の東京での生活費として400万ほどを女房に、新学期の美羽の授業料を120万ほど渡して、手元には880万残った。

年が明けてすぐに東京から戻ってから、子会社の処遇について親父と話をした。一人暮らしのマンションの部屋は、年末に便利屋を頼んで掃除したらしく、片付いていたが、正月らしい飾りつけは何もなかった。

「おまえが来ると思って買っておいた」と言いながら、冷蔵庫から刺身の盛り合わせを出し、3本の徳利に清酒を注いで、レンジにかけた。

「親父、ちょっとこの状況じゃヤバイかもしれないんだ」

「減産か?」

「恐らくこのままじゃ7割減とか・・・とても会社をやれる状況じゃないかも」

「そんなに悪いのか?」

暖まった酒を盃に注いで「まぁ飲め」と言った。

「特に自動車関連は悪い。売れないんだよ」

「そうか・・・」

 

年始の目出度さもすっかり影を潜めた正月だった。すでに会社の任意整理と同時に離婚してしまって、気ままな生活をしていた親父だが、子会社に顔を出せばいまでも「会長」と言われて気分よく過ごせていた。

創業以来25年に渡って育てた会社を一度は失った。その時の苦しみや悲しみは理解できる。けれど、親父は「中島のお陰で」と言って、決して長い間実務で苦杯をなめてきた俺に感謝しようとはしなかった。

「中島を引き抜けと言ったのは俺だからな」と自慢げに言われると、ますます腹が立つ。「誰が苦労してんだよ!」と言っても決して耳を貸そうとしない。

「遊びで会社を潰したようなもんだ」とある債権者が言ったが、その通りだと思った。会社の状態が悪いのに、「ゴルフこそわが人生なり」と言い放ち、毎日のように出かける親父の後姿が憎かった。

「中島をよこしてくれ」

「親父は関係ないよ」

「お前じゃわからんから中島に聞く」

いつも、親父とは仕事の話になると険悪な雰囲気になる。俺自身、親父の生き方には素直に共感できなかったし、またいつまでも自分流を押し通そうとした経営に対して反感を持っていた。

「親父のようなのが、今の時代は通用しなかったんだよ」

そういうと、怪訝な態度を一層強め、盃を続けざまに煽った。
だが少し間をおいて遊びの話を持ち出すと、すぐに機嫌が戻った。そういう切り替えは滅法早かった。

「もう仲間も歳とってきてるから前のようにはゴルフできないだろう?」

「でもな、あれから何度か、有坂さんを誘ったよ」

「渡辺さんともやったの?」

「オーナーとも一度やったかな」

「電話番号知ってるんだろう?」

「有坂さん?ああ、ここ」

と親父は携帯を差し出した。
「お前に会いたがってたぞ」と言いながら4本目の徳利を空にした。

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2

年が明けてすぐに、新春相場の日経平均株価は9,000円を突破し9,400に迫ってから、リーマンショック後のもっとも苦しい約2ヶ月半の下落に突入した。年内ぎりぎりに米国政府によるGM支援が決まり、これで金融危機は峠を越して戻り相場になるという楽観論も出始めたが、綾戻しに過ぎなかった。

そして3月8日に10月末以来の7,000円とダブル底を演じるまで待ったなしに下げ続けた。
その間日本経済は・・・、日本のあらゆる産業は、リーマンショック後の最悪期を迎えていた。日本社会はまるで深い闇の中に吸い込まれてゆくような、言い知れぬ不安感に覆い尽くされた。

1月の末になると、状況はますます悪化してきた。子会社の受注は減産に次ぐ減産で、他社からの受注も含め、売り上げ予算は通期の6割程度まで落ち込むと予想され、期末に4億円近い赤字が想定された。なにもかも、手の施しようがなかった。

「社長、いくつか考えてみたんだけど・・・」

2月に入って間もなく中島が、財務諸表と計画書2通を持ってやってきた。

「手の施しようがないだろう・・・」と言うと、

「選択肢があまりないですねぇ・・・」と、中島も厳しい顔つきになった。

1通目の計画書は子会社を売却するというもので、できるだけ早い段階でやればやるほど可能性は高いことを示唆していた。
「もちろん、買い手が見つかることが前提だけど・・・」と言って中島は神妙な顔つきで続けた。

「いま、振り出し手形や未払い給与等の含めた債務全体で約8億で、うち銀行債務は5.5億、債務保証は本社や社長個人を含めて3億ですね。資産価値は、不動産、機械設備等固定資産全体では12億くらいなので、通常の状況えあれば、十分に成り立つ話なんだけど・・・」

後に続く言葉は聞く必要もなかった。この経済状況ではいくらディスカウントしてもなかなか引き取り手が見つからない。そしてこうした経済環境で売りたいとなったら、足元を見られて叩かれるのが落ちだと思った。

「じゃ、次は任意解散か?」と言うと

「そうです」と答えた。

「株式譲渡は検討しなかったのか?」

「担保が外せないと思うので、それは論外だと思いますよ」

中島は流石に様々な角度から検討を加えていて、質問には淀みなく答えた。

「ただ・・・任意解散は実質的に結構な資金需要がでる・・・」

「だよな。可能な限り振出手形を買い戻す必要があるもんな」

「その通りです。でないと強硬な連中はすぐに不動産を差し押さえてきますから」

「額を減らしておけば詐害行為になるからな」

「流石ですね、その通りです」

中島との協議はいつも阿吽の呼吸だった。

「で、どれくらいを想定してる?」

「金融機関は担保押さえてるので大丈夫として、当面は1.5億くらいあれば・・・」

「都合つかんなぁ・・・」

「社長、本社で調達するしかないね」

「 社員達はどうする?」

「予告解雇するしかないでしょう」

「そこでも1億は必要だな」

「有給消化も含めて最低2ヶ月ないと納得しないでしょうね」

「退職金はどうする?」

「団体保険の掛け金でなんとか・・・」

「わかった・・・、それしかないな。いまやらんと手遅れになる」

「じゃ2案目で準備します」

「 (顧問弁護士の)山崎先生と打ち合わせてくれ」

「わかりました、では早急に」

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その時点ではベストの選択だと思った。ただし事業清算は1、2年かかるのが相場で、最終的には固定資産の処分ができて初めて終了となる場合が多い。だが当然のことながら代表者の経営責任は免れない。特に、金融機関の借り入れは連帯保証分を最後まで追求される。

そうなれば個人的に資金的なマージンを持っていなければ、本社資金に手を付けざるを得ない状況に追い込まれると思った。固定資産を十分に持つ子会社ならば、何とか清算という選択肢も出てくるが、本社となるとそうはいくまい。

昨年の大量受注の設備投資や運転資金の借り入れに本社保証を付けたのも痛かった。たかだか5千万を引っ張るために、信金に対して債務保証をしなくても、固定資産に対する2番抵当で十分だったはずだ。信金あたりにガタガタ言わせるな、と塩谷に言ったのは驕りだと後悔もした。

しかし、資金的な部分はなるようにしかならないものだが、問題は社員達をこの苦しい社会状況のなかで解雇するという選択をすることだった。

現実的に完全に業種違いの本社で吸収できる人員は10名程度だろうと思ったし、後の150名はこの状況下で仕事を失い、再就職を模索しなくてはならない・・・。

経営判断としては決して間違っているとは思わなかったが、それは社員達にとっては余りに残酷で冷徹な仕打ちなのだ。いま、日本経済が崩壊の淵に立たされていて、多くの人々が職を失うことは決定的に思えたが、その中に社員達を放り出すというのは、まともな経営者の選択ではないとわかっていた。

自分は完全に経営者失格だと思った。

 

もう人の上に立つようになって何年になるだろう。東京で中堅の商社に就職して10年目に課長と呼ばれる地位に就いたあたりから、部下を意識して、部下に命令し、相談に乗り、まるで兄貴のような気分に浸った。

反面上司に対しては常に反抗的で、部下の代弁者たろうとした。そうすることで、部下達の信頼を得たが、組織での地位は2年ほどで排他的なものになった。そして、上司の前で「正しいことが通らないなら辞めます」と啖呵を切って去った。

所詮「正しいこと」の意味など分らぬ青二才だった自分を上司は予想外に真剣に引きとめてくれた。「おまえ、格好つけて人生を棒に振るな」という上司の言葉に「格好つけられない人生ならいりません」と言い放ち、その気持ちを、好意を踏みにじった。

 

東京で家族を抱え行き場を失ったところへ、親父が上京してきて帰郷を説得した。そして2週間後、スーツから作業着で油まみれになる生活が始まった。

2年もすると、手から工業用潤滑油の匂いが抜けなくなったが、3年目には専務取締役に昇進し、経営全般を見るようになった。が、それは金融機関と親父が仕組んだ罠だった。昇進と同時に債務の連帯保証を要求され、「保証していただけないと融資を止めなくてはまりません」と脅された。

保証後、大企業とはかけ離れた借金まみれのボロボロの財務と、おおよそ会社組織らしくない勝手な幹部達の振る舞いが会社全体を寝食していることに気付いて、そのことを親父に進言してが常に窘められるだけだった。

2年後、僅かな蓄えとともに会社を作って二足のわらじのまま独立した。その年美羽は小学校に入学し、美樹は幼稚園に入園した。

以来10年間、社長と呼ばれた。

社長の仕事はとは、組織を作り、ヒトを率いて合法的に利益を出すことを目標に掲げること。そして社長は利益を出せば出すほどに称賛される。もっともらしい言葉で社員のマインドを焚きつけ、懸命に仕事をすることが幸せに繋がると説く。

目標に向かって頑張ることは人生において尊いことだと納得させて、売り上げを拡大し利益を上げて再投資する。そしてより多くの社員達をさらに次なる目標に向かって走らせて、時には十分に洗脳して、目標に向かわせる。他人の人生を無理やり染めてゆくのが社長という仕事なのだと思った。

だが、そのために大切なものをあまた犠牲にした。家族と過ごす時間、先祖を供養する時間、友人たちとの付き合い、綻びを繕って昔を懐かしんで未来を想像して生きようとする気持ち。それらはすべてカネで解決出来ると思いこんだ。でも何処か、心の片隅で、自分の人生は随分と希薄で滑稽なものになっていると感じ始めていた。

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3

隣市の郊外は旧市街地が寂れるのと対照的に開発が進んでいた。広く整備された片側2車線のバイパス沿いには大型店が数店進出して、その集客を当て込むように飲食店が次々にオープンしていた。だが、その裏側は旧態依然の田畑が広がり、十数戸の分譲住宅が合間に点在していた。

バイパスが開通してから、隣市の市街地までは20分ほどで到着できるようになった。そして市役所通りを左折して、5分ほど走ると運動公園が整備されていて、師匠宅は陸上競技場の裏手にあった。

 

あのライブドアショック以来、坂道を転げるように次々と困難にぶつかった。そしてその度に失い続けてきて、とうとう5年をかけて再建した子会社までを失おうとしていた。

結婚以来、仕事しか眼中になく家庭を顧みなかった報いをも受けた。そして預貯金のすべてを運転資金と株取引につぎ込んで、手元には僅かに800万の現金が残っただけだった。だが、そのカネも子会社の清算処理が始まれば恐らくあっという間に消え去るだろう。

これから娘達の学費も生活費も捻出しなければならないし、女房の治療費もいくらかかるか分らない。本社さえ継続していけば、なんとか食うことはできるだろう。しかし余裕などできるはずもなかった。

 

3月になっていよいよ子会社の清算スケジュールが決まった。様々な手続き上の問題もあって、最短でも4月1日付けの発表で6月末を持って清算する日程しか選択の余地はなかった。そのためにさらに9千万ほどの人件費と2千万ほどの経費を流動資産の売却で賄う必要に迫られた。

俺は・・・社長として完全に追い詰められていた。そして、そうなって初めて過去の株式投資での失敗が悔まれた。思い切り、後悔もしてみたが後の祭りだ。

幾許かの蓄えがあるか?と親父に聞いた。親父の前で、プレッシャーに押しつぶされそうだと弱音を吐き、泣きごとを言い、そして最後に過去の株の失敗を大いに悔いて見せた。

「ならば、株で獲り返してみせろよ」

と親父は言い放った。

「有坂さんによく教わってみな」

親父のその一言で、有坂さんの存在を思いだした。

 

「先生には大変にお世話になって・・・」

と玄関先で出迎えてくれた有坂さんは、人懐こい笑顔で言って平屋の瓦葺の和風な住まいに迎えいれてくれた。畳に厚手のカーペットが敷かれ、レザーの小ぶりなソファーとしっかりした本棚が目立つ応接間に通された。

「いろいろご苦労されてるようで・・・先生から聞きました」

「親父は先生ですか?」

「渡辺社長もそう言ってますからね」

タイミング良く奥様がお茶とお菓子を持ってきて、「古女房です」と紹介された。小柄で落ち着いた雰囲気の、言葉が丁寧な女性だった。

「厚かましいと思ってます。けれども、どうしても有坂さんに株式投資を教えて欲しいんです」
と単刀直入に切り出した。

「もう、引退して8年だよ。無理言わないで下さいよ」

「でも、今でも投資されてるんでしょう?」

「僅かな小遣い稼ぎ程度ですよ」

「無理を言ってるのは重々承知の上です。でも、もう後がないんで・・・」
と言うと有坂さんは、深い溜息をついて黙り込んでしまった。

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有坂さんは、60歳で定年延長を蹴ってきっぱりと仕事を辞めていた。55歳の時、顧客とのトラブルに巻き込まれて引責する形で野村から身を引いた後に、中堅のO証券へと転職。取扱高の少なかった法人運用二部を任されて5年後の引退だった。

その後、奥様の実家のあるこの土地で、150坪ほどの農地を譲り受け宅地転換して住まいを新築したとのことだった。

「借金はできないからこんな小さな家しか建ちませんでした」と笑った。引退後、地元の商工会議所から投資セミナーの講師を頼まれて5年ほど勤めた後、65歳で現在の隠居生活に入ったと言うことだった。不幸にして子供に恵まれなかったご夫婦なので、2年ほど国内旅行を楽しんだが、空しくなって飽きてしまったと。

「主人はじっとしていられない人なんですけどねぇ・・・」と奥様は笑った。仲の良い夫婦だと思ったし、子供がいなくてもそれはそれで夫婦は十分成立するものだと感じた。

「大変だろうね、こんな経済環境じゃ・・・」と有坂さんは言った。そしてその言葉に続けて、子会社の再建劇から上場失敗して現在に至るまでの経緯を話した。

有坂さんは上場に関して
「F証券の勇み足だな。梯子外されたね」
と言った。

「F証券なんかIPOの実績もあまりないし、親会社のメガバンクからの圧力がかかってるね。だから強引にやろうとしたんだ。けれど、親の事情が変わっちゃって引いちゃったってことだね」

「有坂さんはそう思いますか?」

「IPOなんて、どんな内容でもやれるからね」

「うちのケースでは?」

「十分だね。みんなもっと酷い会社ばかりだからね」

「本当ですか?」

「いや失敬、こんなこと言うべきじゃないね」

有坂さんの、その言葉に茫然とした。体中の血が逆流するかのように顔が火照って目が霞んだ。そして直ぐに涙が溢れだした。悲しいとか悔しいとか、そういった感情の高まりの涙ではなかった。単に、情けない思いが湧き出ただけだった。体がブルブルと震えて、涙が次々に顎から零れ落ちた。初めて他人の前で号泣した気がした。

「それで、失礼だけど、社長はどれくらい投資資金がありますか?」

「個人の資金が400万程度しか・・・」

「それをどうしたいの?」

「2000万ほどになれば、女房と娘をなんとか・・・」

「ひとつ言っておきたいことがある」

「はい・・・」

「私は社長に株式投資で勝つ方法は教えることができないと思いますよ」

「・・・」

「でも、負けない方法を教えるなら自信は多少ありますけどね」

「それでも是非・・・」

「勝てるかどうかは社長の運ですよ。もって生まれた運次第。でもね、いままでこれだけのことをやってのけた人物だ。私ならその運を見限るようなことはしないと思いますよ。あなたは今は御苦労されてるから、そうは思えないのでしょうけど、他人の私から見れば十分に運のある方に見えますよ」

有坂さんは、若くしてあの渡辺喜太郎の小糸戦や加藤暠の誠備グループとも関わった所謂株屋だった。大物たちの息吹を近くで感じた人・・・。そして魑魅魍魎の株式相場の世界に35年も身を置いた人物。その人からそうい言われて、心の底から嬉しかった。

しかし引退して8年もすれば、氏の存在価値は恐らく誰からも評価されないだろうと思った。だが、この老人の弟子になって、学べるものはすべて学び獲ろうと心に誓った。

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4

「社長、発表を少し待ってもらえませんか?」と、慌てて入室するなり中島は言った。

「メインバンクからの話で、買収してもいいという企業が見つかったそうです。ここは条件だけでも確認してみるべきでは?」

子会社の清算はスケジュールもほぼ決まって、数日後、新年度入りの1日に発表予定だった。

「ちょっと待ってよ。中島さん、清算の件、銀行筋に誰か言ったのか?」

「塩谷社長からですよ。言わないわけにはいかないでしょう」

「(顧問弁護士の)山崎先生は知ってるのか?」

「いえ、知らないと思います」

「ちょっと、それはまずいよ」

すぐに子会社へ電話して塩谷社長に問いただした。

「2週間ほど前に業績の状況を聞かれて、その時に選択肢として検討していると・・・」

「塩谷・・・」

「すみません。でも、買収の件、中島さんから聞いてもらえましたか?」

「いま、報告受けたところだが・・・」

「悪い話じゃないと思ってすぐに中島さんに連絡したんです。中島さんも1週間ほど前にメインに確認してくれたと思いますけど」

「なぜ、報告しないんだっ!」

「すみません。でも今は、そういう段階じゃないと・・・。とにかく中島さんから詳細を聞いて下さい。」

 

この二週間、清算準備で山崎先生と打ち合わせをしていたはずが、他方では買収という選択肢もあったのか、と判然としない気分になった。「ならばなぜ、話があった時点で報告がはいらないのか?」と思ったが、矢継ぎ早に中島が条件の説明を始めた。

買収提示額は8億で、正規社員の雇用を維持する。そして本社及びに社長の連帯保証を解除し、本社の融資分はメインが書き換える、と言う内容だった。

「中島さん、俺と山崎先生と一緒にメインに行ってもらうよ。即決はできない」と言った。

「社長、今の日本の状況では一刻を争います。うかうかしてると逃げますよ」

「分ってる・・・」

確かに中島の言う通りだと思った。資本主義経済はリーマンショック以降で最も危機的な状況に陥っている。本来メインバンクとて、中小企業の買収案件に関わっているほどの余裕はないはず。

にも拘わらず、今回の話が現実であるとすれば、それはこの時期としてはほとんど奇跡に近いと思った。そして何よりも社員の雇用が守れることが最大の救いだと思った。

翌日、アポ取りをして、山崎先生と中島を伴って支店に出向いた。そして支店長からの説明を受けて条件を確認した限りでは信頼のおけるものと感じた。相手は県内では大手に属するトヨタの一次下請け企業だった。

「もしも交渉開始で合意していただければ、本店を通じで先様にお返事さしあげますので」

と支店長は言った。

「こうした酷い状況ですから、これは大変に良い話ですよ」と支店長は最後に付け加えた。そして「よろしくお願いします」と頭を下げた。

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4月1日の清算発表を回避したことで、子会社ではいつも通りの業務が続いた。そして、まるで事前に決まっていたかのごとく、子会社の身売りは呆気なく成立し、4月25日にメインバンク本店の応接で形ばかりの調印式を行って、5月20日付けで実行される運びとなった。

その晩は難産だった子会社処理に目途がたったことで、奔走してくれた本社の中島財務部長、子会社の塩谷社長、そして顧問弁護士の山崎先生を築地の懐石に招待した。そしてあと1ヶ月、最後まで気を抜かずにスムーズに事が運ぶようお願いします、と頭を下げたとき、

「社長、区切りですので・・・」

と言って中島が辞表を差し出した。

「中島さん、どういうこと?」

「もう9年目になるんですが、そろそろ引退してゆっくりと過ごそうと思いまして」
と中島は続けた。そして塩谷も、

「社長、俺は身売り会社の社長という身分なんで、このまま移籍する格好でいいですかね?」
と言った。

「債務関係の処理はすべて山崎先生に報告してありますので大丈夫だと思います。昨日、会長にもお会いしてご挨拶しておきました。改めて社長、お世話になりました」と中島は深々と頭を垂れた。

中島は地元銀行の小さな支店とは言え、支店長まで上り詰めた身でありながら、親父の口添えがあったとはいえ年下の俺によく付き合ってくれたと思った。妙に気が合って何度となくピンチを切り抜けてきた言わば片腕ともいえる存在だったが、こうして辞表をだされたら引き留めることはできないと思った。

塩谷は、親父の代からのプロパーで、歳が若かったせいで社長という肩書は荷が重かっただろう。でも、子会社とともに買収先へ移籍するのは自然の成り行きだと思った。
そして「中島さんも塩谷社長も、長い間ご苦労様でした」と頭を下げた。

だが中島は、5月の買収完了直後、本社の社長室に出向いてきた。
その中島と正対し「終わったね」と言うと、「私には始まりなんですよ」と言って一枚の名刺を差し出した。そこには、

(Nグループ フレームテック株式会社 代表取締役 中島幸造)

と書かれていた。

「中島さん、あんた・・・」

「塩谷君は若いから常勤取締役部長で残ってもらいました」

と中島は言った。

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5

その年の桜は例年になく遅咲きだった。特別冬が厳しかったということもなかったが、3月後半になって寒さがぶり返して、季節外れの雪も降ったりで、開花が遅れた。

4月に入り、急転直下で子会社の買収話が進み始めた頃、手土産を持参して有坂氏を訪ねた。2度目の訪問だった。

「若社長、そんなことしないでくださいよ」

「いやいや、最初だけですから。ご遠慮なく」

「すみませんねぇ」
と有坂さんは紙袋からブランデーを取りだして目を細めた。

「お飲みになるんでしょう?」

「そりゃもう、仕事が仕事だったんで・・・。これ、高いんでしょう?」

「いい酒みたいですよね。親父が好きな銘柄なんでよ」

「ほぉう、先生が。有り難く今夜から頂きます」

「それから、これは奥様に」
そう言って家族がお気に入りだったケーキ店の包みを差し出した。

「ご丁寧にどうも。何かしら?」

「ブランデーケーキです。ご主人はブランデーだから不公平のないように」
そう言うと一気にその場の雰囲気が和んだ。

「もう満開ですかね」

応接間の前に小さな庭があって、そこには手入れされた丈の低い樹木が10本ほど植えられていた。その外側に運動公園の金網のフェンスがあり、通りに沿って満開の桜並木が一望できた。

「綺麗でしょう?ここはね、最高のお花見スポットなんですよ」
と奥様が言った。

「本当に。ご自宅に居ながらこの光景は・・・羨ましいですよ」

「東京のマンションを売って、土地を探しているときにね、家内の兄から宅地転換できるというんで、ここを見に来てね、それがちょうど満開の季節でね、気に入っちゃって、ここに建てたんですよ」

「これは、価値ありますよ」

「家なんて・・・そういうもんでしょう?」
ショートホープを深く吸い込んで大きく吐きだしながら有坂さんは言った。

「若社長、清算、大変でしょう?」

「それが、吉田総業に身売り出来そうなんですよ」

「そうですか、この時期にねぇ。ついてますね」

「そう思いますか?ちょっと躊躇いもあるんですけど・・・」

「いや、売りたくても売れないし、買い手がついて初めて売れるわけで・・・株と一緒ですよ」

「そういうもんですかね?」

「そう言うもんですよ。特に今は、この酷い状況だからなおさらじゃないですか?」

「そうは思うんですけどね・・・」

有坂さんは躊躇いの気持ちを忖度しながらの言い回しで言った。

「先のことを考えれば躊躇いは消えますよ」

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小一時間ほど雑談をしてから、これからどうすればいいのか質問した。

「定期的に教えてもらえますか?」

「そんな時間は取れますか?」

「やり繰りします。此処までは20分ほどですし」

「できればザラバでないと」

「では週2回ほど通いますからお願いできますか?昼までには来ます。後場寄りから見れますからね」

「それがいい」

「でも、お昼時にお邪魔してご迷惑じゃないですか?」

「いや、大丈夫、気にせずに来ていただいて結構ですから」

「ありがとうございます」

「それで・・・パソコンは?」

「私の部屋にありますよ。見て行きますか?」

そう言うと奥まった四畳半ほどの部屋に案内してくれた。そこには、旧型のパソコンと小さなCRTモニターがあった。

「失礼ですけどこれで?目が悪くなりますよ」

「でも、私には十分なんで・・・」

今はみんなこれになっちゃってねぇ・・・と有坂さんは苦笑いした。

「これになってから随分と変わったんですよ。個人がディーラーみたいになっちゃってね」

「そうでしょうね・・・。分りました。それからネット回線はどれですか?」

「これかな?」

「わかりました。じゃ、次回に準備してきます」

「なにか必要ですか?」

「いえいえ、ちょっと細工させてもらうだけです」

「ああ、若社長はプロですからね」

「はい。それと有坂さん、次回から師匠と呼ばせてください」

「とんでもないっ!そんなのは・・・」

「いえいえ。もちろん尊敬の意味もあるんですけど、ア・リ・サ・カ・サ・ンって6文字でしょう?シショウは3文字です。会話がスムーズなんですよ」

「じゃ、私はワカで」
こうして有坂氏への弟子入りが正式に決まった。初めて師匠を持つ身になったのだった。

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