私的小説 師匠 彷徨編(第一章 冷たい雨 後篇)

私的小説 師匠 彷徨編(第一章 冷たい雨 後篇)

冷たい雨(後篇)

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土曜になって11時過ぎにラネージュの前まで来て美佐江に連絡し、雨をかき分けるワイパーの音を聞きながら、夜には華やかなネオンに覆われる通りのうらぶれた風景を眺めていた。人通りはほとんどなく、傘もささずに店頭の片づけをする中年の女性や、雨をよけながら軒下で喫煙する作業着姿の老人。9月の雨が欲望の街を洗い流す、という感傷的な言葉はとても似合わない、ただの日常があると思った。

15分ほどした頃、美佐江の車が横に止まり、「ついてきて」と手で合図をし、そのまま前に出て走り出した。助手席に誰かいたような気がしたが、煙草の煙と水滴が邪魔をして確認できなかった。駅前通りから国道に出て見失わぬように気を使いながら5分ほど走り、陸橋を超えた信号を右折するとすぐに大きなガラス張りのレストランがあった。車を止めると雨足が一段と強くなって、濡れるのを覚悟してエントランスまで走り、振り返ると1本の傘に収まった二人の女性がゆっくりと近づいてきた。美佐江と恵子だった。

「びっくりした?オケイ、久しぶりで遊びに来たのよ」
そう言って美佐江は目配せをした。

「社長、お久しぶりです」
といかにも普通に話しかけられ、「元気?」と返したが戸惑ってしまった。

「入ろうよ、予約してあるから」と美佐江に促され、鉄製の重い扉を開けた。

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「今日はこういうこと?」
「違う、違う、偶然よ。昨日連絡貰ったの。でもいいじゃない?いろいろあったと思うけど、水に流すのも大人よ」
美佐江はそう言って次々に料理を注文し、メンソールのたばこに火をつけた。

「オケイ、ご主人と別れる決心ついたみたい。もう別居してるって。だから、うちで働かないって声かけたのよ。まだ、働かないと困るじゃない?あっ、困らないかぁ。もう孫もいるおばあちゃんだしね。でも、何もしないと寂しいし、まだ若いし・・・」

美佐江は饒舌だった。過去の出来事は承知しているし、親友としての気遣いもあったのだろう。もしも、恵子を雇うことになれば、この先必ず俺との接点ができる。そうなって、過去を蒸し返すようなことになったら、自分が傷つくと考えたのかもしれない。ただそれにしても美佐江の真意を測りかねた。

料理が運ばれ、気持ちも落ち着いて政権交代した民主党議員の批評やら、店でのちょっとしたトラブルの話題で、三人ともが気を使い合いながら、思いのほか和やかな雰囲気を取り繕っっていた。

「オケイなら、カオルのところで鍛えられてるから、女の子の管理とか、経理もばっちりじゃない?」
「そうかな。私、自信ないけど」
「カオルはどう思う?」
「井上さんなら問題ないよ。俺が保証する」

そう言った瞬間に恵子は、ほほ笑みながら何かを訴えるような視線を返してきた。ほんの一瞬だが微妙な間になって、それを美佐江が見逃すはずがないと思った。

「今日はお店、休業なの。秋の旅行を今年は中止したからね。その分、有給扱いでお休み上げたんだ。だから、この後じっくりと事務所で見てほしいしオケイにも内情を知っていて欲しいし・・・ね、カオル」

美佐江は意識的に同意を求めてきて、さっきよりも明らかに長い間を作った。

「いいの?私。帰ろうか?」
「遠慮しないでいいからね。ゆっくりしていって」

美佐江は恵子との過去を明らかに意識していると感じた。

 

ランチの後、移動した事務所は市内を流れる西川の河川敷沿いにある6階建てのマンションの最上階にあった。1階はエントランスと小さな管理室が設けられ、共有スペースは小奇麗に整備され、自販機と観葉植物が置かれていた。各階に2部屋の3DKが階段とエレベータを挟むようにレイアウトされ、高級感のある造りだった。

事務所のレイアウトは20畳ほどのワンフロアと宿泊もできる6畳ほどの部屋があったが、美佐江は衣裳部屋になってると言って笑った。フロアの壁際に3組のデスクが置かれ、打合せのできるテーブルと、接客用のソファーが一組あった。窓からは河川敷が一望でき、野球場とサッカー場が見渡せた。

「ここ、いいね。賃貸?」
「これ、うちの持ちものなのよ」
「凄いね。オフィスKMだっけ?」
「そう。KMって夫婦のイニシャルなんだよね。どうでもいいけど」
そう言いながら美佐江はレモンティーを振る舞った。

「じゃ、早速だけど、前年度の決算書みせてよ。あとは今期の月次損益。それと現金出納帳も」
「本格的ねぇ」
「いや見るだけ。それよりも話を聞いたほうが分かるし」
美佐江は大きめのデスクの引き出しと、書類棚から「あっ、これこれ」と言いながら出してテーブルの上に並べた。

「オケイはここ、2度目だっけ?」
「確か3度目かな。竣工のときに来た記憶があるから」
ソファーに座った恵子は、美佐江とのやりとりから距離を置いていた。

「でも、こんな物件あるんじゃ、オフィスKMは安泰じゃ?」
「だめだめ、もう根抵当ついてるし・・・」
美佐江のその一言でおおよその察しがついた感じだった。

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オフィスKMは、年商が5億強で前期に限って言えば6店舗のうち3店舗が赤字で、その穴をラネージュとパブで埋める構造だった。人件費は2.7億あまり、仕入れが1.3億、店舗の賃貸料等経費が1.3億ほどありマンションの償却等を含め、8千万が赤字計上されていた。今期は、7月までの4カ月で5千万ほどの赤字が計上され、数字の上からは待ったなしの状況だった。

「酷いでしょ?」
美佐江は深刻な表情を作り、メンソールに火をつけると、溜息混じりに言った。

「この1年、何か対策してきた?たとえば賃貸契約の改定とか、仕入先との交渉とか・・・」
「1割くらいは安くなったと思うけど、ほとんど手がついてないんだよね」
「じゃ手をつけたら?」
「それってやっぱ、私の役目、だよね」
「ご主人は?代取なんでしょ?」
「あのひと、やる気ないし。IT企業で当てるとかいって二つ会社作っていろいろやってるから」
「そっちは順調なの?」
「なわけないじゃない。毎月赤字よ。だから突っ込んじゃってるわけよ。親の不動産とか」
「じゃ美佐江ママの仕事だね」
そう言うと美佐江はますます困惑した表情を浮かべた。

そしてソファーの恵子のほうに目線を移して、
「オケイ、手伝ってよ」
と懇願するような口調で言った。

「ママ、ちょっと確認なんだけど」
「どうぞ」
「この仕入ね、手形振り出してる?」
「それは確か半金半手」
「じゃここの振り出し手形がそうなのか。けど金額多いけど他に割賦とかやってる?」
「ラネージュの賃貸料を確か割賦で・・・」
「どうしてまた?」
「それが分からないんだよね。でも前から契約更新時に一括で振り出してたみたい」
「保証金は?」
「確か800くらいは・・・」
「ちょっと法外な契約だね。なにか事情があるのかもしれないけど・・・。」
「で、カオル、どうなの?お店いくつか閉めたら軌道に乗ると思う?」

 

美佐江は確かにオフィスKMグループの顔でもあるし、夜の街では名の通ったママなのだろう。多くの女の子を仕切り、采配を奮って店を切り盛りする。美形の容姿とサッパリとした仕切りが、客筋の悪化を防ぎ、今の地位を確立してきた。

クラブ方式のラネージュ以外は電話営業禁止を堅く守っていたし、その筋のあしらいも上手くこなしてきた。数字の上ではキャッシュでの仕切りが豊富なこの商売は十分に立て直せる計算ができるし、むしろそれは簡単な事のように映る。だからこそ、税理士はそういう指摘を安易にするだけなのだと思った。

しかし、この不況下にあって机上の計算がすぐに通用するような商売はないだろうし、その商売特有の慣習も、そして固有の事情も複雑に絡み合ってるだろう。まして海千山千のこの業界では、強く出られなければ通用しないということくらいはすぐに理解できた。

美佐江は自分の片腕のような存在が欲しかったのだと思う。自分の意図を理解して、役割を分担して担ってくれる存在を、うちの会社を辞めた親友の恵子に求めたのだ。確かに恵子は、総務として労務管理が長く、それ以前は経理も担当していたし、理解することはできるだろう。そして経営上の様々な問題を見聞きできる立場にいたことは確かだった。しかし、このままではそれ以上の存在には決して成り得ない。補佐することはできても、また親友という立場で美佐江の心情を理解することはできても、現実にコストカッターのような役割を果たせるとは到底思えなかった。

「ママの覚悟次第だと思うよ。確かにラネージュとパブで十分にやれると思うし、それがベストだと思う。この不況じゃ誰だってそうするだろうし。けれど、商売は細るよね。細ることの悪影響は必ず出て来る。その時に、踏ん張れるかどうか・・・」
「そうだよね」
美佐江は普段は見せることのない疲れた表情でうなずいた。

「俺も人のこと言えないけどね」
そう言いながら、その言葉はすべて自分に言い聞かせなければならないものだと思った。

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5

井上恵子には、かつて数年間不倫関係にあって、随分と社内で損な役割を演じさせて、迷惑をかけたという思いは少なからずあった。自殺した佐倉との関係を知った時も動揺はしたが、何も言える立場ではないと思った。ただ、上場の夢を砕かれたきっかけになった佐倉の架空取引の事実を、最初から恵子は知っていたわけで・・・、その部分だけは許す心境にはなれないでいた。

その恵子とこうして美佐江の商売の話で相対していることに違和感を感じていたし、恵子自身も居心地が悪かっただろう。だが、美佐江には、恵子の恋人だった和彦を受け入れてしまった負い目がある。恵子は和彦の裏切りを認めても、高校時代からの親友の関係を維持したし、窮地に陥った美佐江がそんな恵子を頼ろうとするのも分らないではなかった。

「美佐江の旦那の和彦君は年下なんですよ。苦労知らずのおぼっちゃん的なところがあって、美佐江に甘えてるんです」
接待用で使う店としてラネージュを恵子から紹介されたとき、美佐江夫婦との関係を聞かされた覚えがあった。

「和彦君は、美佐江と結婚してからも内緒でアプローチしてきて・・・危なかったこともあったけど、親友の旦那とまさかねぇ・・・」
そう聞かされた時、恵子と美佐江夫婦の関係はいまだに微妙なのかな、と感じた。

その恵子にも退社後1年と10ヶ月の間、冷たい雨が降り注いでいたのだろう。見合い結婚した公務員のご主人は地味な人で、農家の長男であるにも関わらず農業を継ぐ意思はなかった。嫁ぎ先には舅と姑がいたが、舅は脳卒中で姑は痴呆でそれぞれ別の施設に入所し、それを恵子は黙って最後まで介護しながら、仕事をしていた。そして佐倉と関係ができ、人身事故を起こして身柄を拘束され、最後には佐倉の自殺のこともあって身を引かねばならなくなった。

その間、ずっと恵子との不倫関係は続いていて、退社して関係が切れたことが恵子にどれほどの影響があったのかは分からない。けれど、一人の女性として重荷を背負い続けていたことだけは確かだった。長女は結婚することなくシングルマザーとして出産した。そしてその孫の面倒を見て過ごすと言っていたが、奔放過ぎる娘やすべて任せきりでマイペースのご主人に対する不満は、抑えきれないレベルに達していたのだろう。それでなくてもずっと勤めを続けていて、地方公務員であるご主人との考え方の落差を埋められないと不満を言うことが多かった。

 

事務所を出る頃には雨は上がっていたが、湿度の多い夕闇に包まれてしかもやけに肌寒かった。エントランスまで来て、美佐江が「夕ご飯、三人で」と言い出して、娘がいるからと遠慮したが、「三人で食べる機会は今日が最後かもしれないよ」と含みを持たせた言い方をして、恵子も同意したので押し切られた。

「オケイは今日、泊まって行くって。だからうちの近所の三峰行こうよ」
「それ、日本料理?」
「割烹かな。小さなお店で、ほら、組合員だからときどき使わないとね」
そう言いかけて美佐江の携帯が鳴った。

「旦那がちょっと帰るらしいから、先に行ってて。どうせ嫌な話なんだから。オケイ知ってるよね、三峰。先に食べててよ」
そう言い残して、怪訝な顔つきになって車に乗り込み走り去った。

「ミサはいつもマイペースなんだから・・・」
と恵子は苦笑いを浮かべ、二人残されたことへの気まずさもあって「行こうか」と小声で促し車に乗り込んだ。車内では道案内の会話以外、お互いに話そうとせず、重苦しい雰囲気になった。賑やかな通りを抜け、美佐江の自宅近くの住宅街の一角にある割烹三峰に10分ほどで到着し、道を挟んた対面の5台ほどの駐車スペースに車を止めた。

格子戸を開けると檜のしっかりしたカウンターに一組の男女の客がいた。寿司屋のような板場があり奥には仕切られた和室とテーブル席がある小奇麗な店だった。女将らしき中年の着物姿の女性に「いらっしゃいませ」と丁重に挨拶され「さきほど、ご連絡いただきましたので」と、箸とお通しの並べられた奥側の座敷に通され恵子と向かい合った。

「社長、本当にすみませんでした。ご迷惑かけてしまって・・・私、責任感じてます」
「過ぎたことだよ」
「上場、社長の夢だったのに・・・私のせいで・・・」
「恵子のせいとは思ってないよ。俺自身の運命だと思ってる。だからもう忘れてよ」

そう言わなければ、その場は収まらなかった。この後美佐江も合流するから、奇妙な三人の関係をなんとかやり過ごさねばならないと思った。どの道、大人同士だから、無闇に荒立てるようなことにはならないだろう。けれど今となってはいろいろな事情が絡み合った三角関係であることは、間違いなかった。

「旦那と別れるの?」
「そう言って家を出たんですよ。でも、相手がなかなか承諾しなくて・・・」
「お金の問題とか?」
「それもあるけど、ほら、農家なんで世間体ばかり・・・」
「揉めるんだ?」
「親戚とか周りが嫌なんですよ。ほんと煩いし・・・」
そう言って恵子は今の身の上を説明した。

「でも、いろいろあったなぁ・・・・」
1年と10ヶ月ぶりの恵子は、相応の年齢を感じさせるようになった。一旦、仕事を離れると人目を余り意識することがなくなってしまって、メイクもしっかりとしてきてはいたが、あの頃のブラウスとタイトの似合う面影が薄くなったなと感じた。そして時折見せる陰のある表情が、決して幸せでないと訴えていた。

「ミサと親しくなったんですね」
「その後も何度かお店使ってるし、苦しいこともわかるしな。俺も会社楽じゃないから」
恵子は俺と美佐江のやり取りで、微妙な空気を感じたのは間違いなかった。

「ミサも別れたいって言ってませんか?」
「聞いてないよ」
そう答えてお茶を濁した。

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「待たせてごめん」
30分ほどして、美佐江が女将に挨拶し料理と生ビールを注文してから恵子の隣に座った。気付いてはいたが改めて正面から向かい合うと、美佐江はまるで別人のように感じる。営業用のメイクは確かに美人顔になるけれど、同時に近寄りがたさを感じさせるのだ。

「カオル、何見てる?なんか顔についてる?」
しばし見つめると美佐江がすぐに反応した。

「営業用のメイクしてないからね。そういえば、初めてかな?」
「初めて」
初めてではなかったけれど、恵子の手前話を合わせた。

「どっちがいい女?」
「今、かな」
「じゃ、私とオケイはどっち?」
「どっちも」
「優柔不断だね。こういう男っているんだよね。オケイ、気をつけなさい。こういう男に」
そう言って美佐江はおどけて見せたが、目元のメイクが滲んでいて腫れていることはすぐに気付いた。そして、そのことを恵子がすぐに指摘した。

「和彦と揉めた?喧嘩したでしょ」
「オケイには隠せないね。やっちゃったよ、だって無茶苦茶なんだもん」

そう言うとこちらを向いて、

「カオル、ほら親の土地売った三千のうち、千はこっちに回すって言ったのに・・・やっぱり全部ないと足りないって言い出したのよ。酷いでしょ?」
「そうなんだ」
「だって、この商売だって自分の責任じゃない?親から受け継いだ商売だよ。それなのに、無責任にもほどがあるよね」
そう言って美佐江は運ばれたビールを半分一気に飲んで、溜息をついた。

「どうせ、いまだって、あの女と一緒なんだよ。別れたなんて嘘ばっかり言って。ほんと、私も別れちゃおうかなぁ・・・」
「ミサ、短気はだめだよ。私の前では禁句だからね」
「オケイ、それ、どういう意味?もしかして私が和彦を盗ったってこと?」
「そんなこと、言ってないじゃない」
「言ってるよ。そう思ってるんだ?オケイは」

険悪な雰囲気になりかけて慌てて間に割り込んだ。親友同士だからこそ、遠慮のない言い回しになる。それが拗れると思わぬ喧嘩になることは、良くあることだ。

「二人とも売り言葉に買い言葉はだめよ。ここで揉める理由なんかないからさ」
「そうね、昔のことだからね。オケイだってさっさとお見合いして嫁いじゃったし」
「私は辛かったのよ」
「そういうこと?辛いからって結婚されたらたまらないよね、ご主人も」
それでも美佐江の皮肉めいた口調は止まらなかった。

「で、和彦君は?出て行っちゃったの?」
「どうせ、女のところへ行ったのよ。オケイ、チャンスかも。いまなら和彦、盗れるかも」
「ミサ!いい加減にしてよ」
「・・・・」

しばし、二人の剣のあるやり取りが続いていたたまれなくなり、「出ようか、お店に迷惑だから」と促した。「大人げないよ、二人とも・・・」というと、二人は沈黙した。
運ばれた御造りや煮物にもほとんど手をつけることなく、女将に謝って会計をし、二人を連れだした。店の前の通りで「やるなら自宅でやりな。徹底的にやっちゃえば。でないと一緒に仕事なんかできないよ」と諭して、徒歩で来た美佐江を自宅前まで送った。

「二人とも、降りてよ。まだ決着付いてないじゃない。それにカオルは飲酒運転だよ」
恵子と顔を見合わせ、仕方なく「旨い珈琲入れてよ」と言って車を降りた。

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6

リビングのソファーに座ると「何か作ろうか?」と美佐江が言い出した。「パスタならすぐできるし、レトルトだけどパスタソースあるから」と言ってキッチンに向かうと「手伝う」と言って恵子も追いかけた。「さっきまで皮肉を言い合って険悪だったのに・・・しかも昼もパスタ・・・」と思い呆れたけど、空腹が良くないと思った。空腹は神経を苛立たせる。

ほどなくして、二人は何の拘りもない様子で茹でたてのパスタとソースをそれぞれ大皿に盛って、茹でたフランクフルトと缶詰のホワイトアスパラと白ワインをテーブルに並べた。

「カオル、こんなのしかないけど食べましょ」
「ああ、不良主婦じゃ、この程度だよな」と返した。

会話は少なかったが、3人とも僅かな時間で料理をたいらげ、白ワインはボトル2本が空になった。

「オケイ、久しぶりだね。昔はよく泊まりに来てこんなの食べたよね」
「和彦君も子供達も一緒にね」
「そうね、今はどっちもいないけど。あっ、その代わりカオルがいるか」
「俺はピンチヒッターなんだ?」

空腹が満たされ、酔いも回り始めた。ギクシャクした会話は徐々にスムーズになってきて、たわいない冗談に笑顔が見えた頃には、恵子はだいぶ効いてきたように見えた。

「カオル、ビール飲もう。エビスとハイネケンあるけど、どっち?オケイも飲んじゃう?」
「いや、これ以上飲むと、帰れなくなっちゃうから遠慮しておく」
「いいじゃない、二人とも泊まっちゃえば?今夜は亭主に虐められた哀れな私を一人にするのは罪だよ」
「私はいいけど、社長は・・・ねぇ」
「俺は帰るよ。二人で仲良くやってよ。仕事のパートナーになるんだし」
「じゃ、もう少し付き合いなさいよ。ビールくらいいいでしょ?」
そういうと美佐江は半ば強引にビールを運び、3缶を開栓してそれぞれに手渡し「乾杯」した。

そして、ビールを飲み終わらないうちに恵子は、
「ミサ、私もう駄目、寝ちゃう」
と言ってソファーにもたれかかって目を閉じてしまった。

「この離婚主婦、寝ちゃったね」
「じゃ、俺もそろそろ・・・」
「待って。ねぇ、キスしよ」
「恵子が起きるよ」
「起きないわよ」
そう言って美佐江はもたれかかってきた。

恵子に注意を払いながら酒と煙草にまみれたお互いの舌を荒々しく吸い合い、美佐江に導かれて豊かな胸を胸元から手を入れてまさぐり始めた時、恵子の瞼が動いたような気がした。

「まずい、恵子に嵌められたか?」と思った。おそらく恵子は気付いたのだろう。いや、それ以前に美佐江との関係に気付いていて、一芝居打たれた気がした。

「美佐江、本当に今夜はもう帰るよ。代行呼んでくれないか?」
「わかったわ」
美佐江が電話すると混んでて30分くらいかかると言われた。

「外で待つよ」
と言って玄関を出ると、美佐江が追ってきた。

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肌寒いくらいの屋外に出ると、午後になって止んだ雨が再び霧雨のように降り始めていた。通りに面した門扉から玄関までのアプローチは石段になっていて雨に濡れて滑りやすく、塀沿いの丈の高い何本かの植木の間に支柱が設けられ、感応式の監視カメラとガーデンライトが玄関先を狙っていた。

「監視カメラは何台ある?」
「和彦の会社で売ってるやつよ。外に3台あるかな」
「室内もあったりして・・・」
「怖いこと、言わないでよ」
そう言いながら美佐江は傘を開いて差し出した。

「ねぇ、カオル。見られたっていいじゃない。オケイだって二股かけてたんだから・・・」
「まぁ、そうだけど。でもまた喧嘩になるよ」
「なってもすぐに元通りだから。ほんとはね、和彦は強引にオケイとしちゃったのよ。私、知ってるんだから」
「でも恵子は危ないこともあったけど関係してないって言ってたぞ」
「そんなの嘘よ。和彦は親友よりいいだろ?って言ってお店の子に手をつけたのよ。それが今の女」
「それじゃ確信ないじゃない」
「和彦はね、そういう男なの。だって私と付き合い始めても切れなかったし。そういう関係ってすぐに戻っちゃうのよ」
「そうか・・・」
「オケイは人の亭主と関係しながら何食わぬ顔で親友やってたわけよ。でも、私は仕方ないと思うけど」
「友情?」
そう聞くと美佐江は、シリアスな表情を浮かべ話し始めた。

「オケイはね、高校の頃、不良連中に虐められてレイプされちゃったのよ。その時は本当にかわいそうだった。結局親にも学校にも言えなくて、もうボロボロになっちゃって。左のね、手首に傷あるのよ。何度か植皮してだいぶ薄くなったけど、リストカットした時の傷なのね。親から私に電話来て、何かあったの?と聞かれたけど私も言えなかった。だからしばらくは男性恐怖症というか、精神的にね。そんな恵子を救ったというか、立ち直らせたのは、ある意味和彦なんだよね」

「そんなことがあったんだぁ」

「けど、和彦にしてみると、その話を告白されちゃって、なんか重くなっちゃったのよ。それで私のほうへ寝返ったというか・・・。それに多分、私のほうが水商売向きだと思ったのね。親の商売継ぐには私のほうが都合がよかった」
「それで美佐江と?」
「私ももちろん、オケイの彼だって知ってたし・・・、でも本当のこと言ってオケイは私にとっても重くなってたから。和彦、強引だったしね、信じないだろうけど、私、いい歳して初めてだった。」
ガーデンライトに浮かび上がる霧雨が徐々に激しくなってきて、二人とも傘からはみ出た部分がしっぽりと濡れてしまった。

できるだけ寄り添いながらの立ち話で、恵子の過去を聞かされた。美佐江に悪意があるとは思わなかったが、自分の存在が二人の間に新たな蟠りを生むことは明らかだと感じた。

「それでよく今まで続いたな」
「だって・・・負い目があるのは私のほうだよ。それにオケイは誰かに頼ってないとダメな性格なのね。だからカオルにずっと頼りきりだったんじゃない?」
「そういうの、気付かなかったなぁ」
「きっとご主人じゃ物足りないのよ。もっと強い人じゃないと」
「じゃ、どうしてお見合いまでして農家に嫁いだんだろ?」
「私と親友でいるため、かな」

和彦と美佐江が結婚した以上、恵子は身の置き処を失ったのだ。もちろん、和彦や美佐江に対する不信感もあっただろうし、その時はもっとも辛い思いをしていただろう。けれども恵子は、和彦と美佐江から離れることはできなかった。後を追うように結婚して身を固め、常に二人への蟠りを残したまま、美佐江との関係を続けるしかなかったのかもしれない。

「ねぇ、カオル。もしも未練があるならオケイに戻ってもいいよ」
「いや、俺は切れたから。それにさ、俺も女房のことでは酷い亭主だから・・・」
「それもそうね。奥さんは大事にしないとね。こんな私が言えた義理じゃないけど」
「女房、実は癌でさ・・・東京で治療してるのよ」
「えっ!本当に?」
「乳癌、見つかったときステージⅢbだった」
「それで東京で治療してるってこと?」
「そう。長女のところから通院しながら。こっちで手術したけど再発でさ」
そういうと美佐江の顔色が変わった。

「いままで、家庭なんか顧みないで仕事ばっかでさ、本当に最悪の亭主よ」
「そんなこと、言わないでよ。私、聞きたくなかったなぁ」
「ごめん、言うべきじゃなかったな」
肩を寄せ合ったまま沈黙し、美佐江が二人の関係を確かめるように手を握り締めて、立ちすくんだ。何台かの車のヘッドライトが通り過ぎるたびに、別れの時間が来たと脅えた。

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「私、ほんとに悪い女になっちゃった」
「俺も同罪だよ」
「こんな商売してると心が荒むんだよね・・・」
「俺だって同じようなものだよ」
「けど、寂しくて・・・」
「ああ」

美佐江の目頭から涙がこぼれた。そして、抱き締めて頬を拭うように胸元に押しつけた。

「私のこと、好きだった?」
「ああ、好きだよ」
「好きだから抱いたんだよね?」
「ああ」
「でも、勘が当たっちゃった。今日が最後かもしれないって・・・」
「勘?」
「そんな気がしたのよ。お互い、知れば知るほど辛くなるから・・・」
「ああ」
「今日はありがとう。私、なんとかやってみる。もうカオルには頼らないからね」
「無理するなよ、何かあったら相談にのるから」
「そんなに優しくしないで。甘えるから。オケイと頑張ってみるから」
「でも、約束な。厳しくなったら必ず連絡してくれよ」

美佐江は声にならずに胸の中で何度か相槌を打った。そしてこらえ切れなくなって「うぅぅぅ」と声をあげて泣いた。

「ああ、カオル、最後にもう一度キスして」
「代行来るよ」
「来るまでずっと。お願い」
霧雨が雨に変わった。傘を落として濡れながら美佐江を抱きしめた。

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