私的小説 師匠 斜陽編(第三章 堕天使)

私的小説 師匠 斜陽編(第三章 堕天使)

堕天使

1

連結売上高52億、純損失2.2億・・・2006年度の決算は散々な結果になった。

相変わらず訴訟相手からの妨害は継続していて、システム系の新規受注は3割減となったばかりか、比較的安定収益を稼ぎ出していた既存契約の3件の破談も痛かった。そして、年が明けても円安傾向が引き続いて、一部輸入原材料の市況が高止まりしていたことが、破綻処理後子会社化したオヤジが創業した製造業の収益を圧迫し、赤字を膨らませた。

この時点で、上場スキームは完全に消滅状態になったし、メインバンクの腰が引けたことで、ただでさえタイトな資金繰りは綱渡り状態となった。

だが、業績が悪化したのは、必ずしもそのことだけが原因ではないと思えた。2003年から73ヶ月間続いた「いざなみ景気」は「実感なき経済成長」と言われ、一部の業種だけが潤っていたにすぎなかった。

2006年~2007年はその最終局面に差し掛かっていたのだが、当社はたまたまその景気の波に乗ってここまでたどり着けただけだった。それはある意味「運」なのだ。

「運」であるなら、いつか落ちるものだ。それでなくても冷静に見たなら、ガソリンを筆頭に円安による物価上昇はジワジワと生活や企業活動を圧迫し始めている実感はあったし、取引先各社の業績も好景気と言われるほどでもなく、システム開発や物品の購入は抑えられる傾向だった。

 

2007年度に入ると、さらに輸入原材料の価格上昇によって連結子会社のカー用品部門の収益悪化が止まらなくなった。システム開発事業の原資は基本的に人材だが、製造業では原材料費の動向が直接的に収益を圧迫する。

しかも、自動車メーカーからのコストダウン要求は厳しさを増す一方で、利益を捻出するのは不可能と思えたし、それを補っていたアフターマーケットの販売が伸び悩み、刻々と追い詰められた。

 

「山崎先生、佐倉をなんとか不起訴にしてくれませんか?」

テレビが好景気と囃したて、海外旅行者が史上最高となったゴールデンウィークが明けて一週間ほどして取引先の購買課長とともに佐倉が逮捕された。

そして逮捕から数日して佐倉の奥さんと両親が来社した。農家だという佐倉の父親は、田植えの準備で忙しい時期だと見えて農作業のいでたちで、母親は添え物のようにひっそりとしていた。

「何とか許していただけませんか?」と奥さんに涙ながらに懇願された。

「娘が高校進学なんです・・・」といって泣かれたら、一度は信頼して取締役に引き上げた社長の責任を感じざるを得なかった。

確かに佐倉は、取引先にそそのかされたとはいえ幾ばくかの野心を抱いたのだろう。独立して、社長と呼ばれたかったのかもしれない。佐倉は最後まで本心を吐露することはなかったけれど、佐倉の野心を責めたとて、それが悪といいきれない自分がいた。

「人間、野心を持てなくて何の人生よ」というのが、俺の飲んだ席での口癖だった。

「奥さん、横領があるんですよ。それに、そのことで多大な損害も出てる」

「わかってます・・・」

「もし、不起訴になったらどうするの?」

「一から出直して、何とか頑張っていくつもりでいますから・・・」

早朝に刑事と警官数人が突然現れて、佐倉を確認すると玄関先で逮捕令状を差し出した。それはまるで、テレビで観るシーンと同じだったと奥さんは言った。

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逮捕されるまで佐倉は、ほとんど家にいて、時々職探しといって外出したが、翌朝まで戻らないことも何度かあったということだった。

そんな時は「自殺でもしないか」ととても不安だったが、明るい娘の態度に救われたと。その娘が、逮捕のショックで登校できなくなってしまったと・・・。

同席した佐倉の父親はギョロっとした目つきで恐る恐るこちらの様子をうかがうような弱弱しい態度で、奥さんと同調して頭を下げたが、母親は俯いたまま顔をあげることはなかった。そしてその場では、まるで自分が相手をきつく責めているようで居た堪れなかった。

「社長、本心ですか?」

「そう、もう上場も流れたし、人を責めても仕方ないだろうと思ってさ・・・」

「甘いなぁ・・・でも、きれいですよ」

「きれい?」

「人を責めても仕方ないって言葉ですよ。こんな仕事だけど、そう思うことが何度もあるんですよ」

そう言って弁護士は笑った。

初めて山崎弁護士の柔らかい表情を見た気がした。そして示談書と嘆願書を早急に作成して検察に提出するよう佐倉の弁護士に働きかけると言った。

「こちらからはできませんけど、そうすれば、起訴猶予には持っていけると・・・でも、民事、勝てませんよ」

「わかってる。けど和解はできるか?」

「多分・・・でも賠償は期待しないでください。和解と提訴取り下げ。費用もかかりますけど」

「なんとかするから・・・」

 

それから約3週間ほどした後、拘束を解かれた佐倉と奥さんが来社した。

「このたびは・・・」

「佐倉さぁ、野心持つならこの会社の仕事で持てよ。それを・・・」

佐倉はソファーを降りで床に座り、額をこすりつけて震えた。奥さんも、うわっと涙があふれた。

「ここにはさ、200名以上の社員がいる。お前にだって20名の部下がいたろう。お前はさ、その生活を脅かしたんだよ。みんな上場の夢みてたのに・・・」

俺はもっともらしい嘘を言った。本当は「お前は俺の夢をぶち壊しやがって」といって2,3発殴りたかった。そして、本心を言うことなく綺麗事にすり替える社長と言う立場の自分が汚く思えた。佐倉が野心を持った。そういう土壌を作ったのも、放置したのも、自分の責任、自業自得とわかっていた。

「もう一度、出直そう」

そう言って佐倉を子会社で再雇用することにした。

 

夏になっても、業績の悪化は止まらなかった。訴訟先と和解したとはいえ、取引の回復などできようはずもなく、気がつくと月末は資金繰りに頭を悩ますのが常となった。

長女は都内の私立大学に進学し、二女も地元の進学校に進んでいたが、すでに預金は底をつき、女房は実家に頭を下げてはいくばくかのカネを借り、後期の授業料にあてていた。そんな状況を薄々感じながらも、見て見ぬ振りをしたし、実際、それどころではなかった。

お盆になって休みにはいっても月末の資金手当てのためにオフィスに出た。ガランとしたフロアには、落ちることのないサーバーの轟音が響く。普段は気にならないファンの騒音がやたらと耳についてイラついた。昼近くなって、警備室からの内線が訪問者を告げた。帰省中の長女の美羽だった。

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2

社長室に招き入れると、「仕事なんだぁ」と不機嫌そうな表情で言った。

「大学生活はどう?」

「まぁまぁ、でもそんなことどうでもいい」

「どうした?」

「本当に何も知らないんだね、家族のこと」美羽は怒りとともに目を見開いて睨んだ。

「どういう意味だ?」

「 ママね、病気なんだよ、乳癌だって。ステージ3かもしれないって。死んじゃうかもしれないんだよ。それなのに、何も知らないで、仕事ばかりして。何やってるの。ママ、左耳も聴こえないんだよ。硬いものだって食べられないんだよ。みんなパパのせいじゃない。何やって・・・」

あの幼い頃、幼稚園で虐められて泣いて帰ってきたときのように、美羽は泣きだした。とめどもない嗚咽、溢れ出る涙。両の手で顔を覆い肩をつぼめた。あの時以来、この瞬間まで美羽の泣き顔の記憶が俺にはなかった。

 

いつだって人生は、自分が持っていないものを必死になって追いかける。その途中でふと違和感を感じることがあるけれど、目的を達成すればそこに幸せがあると、努力することが善だと自らに言い聞かせてしまう。

そしてその姿は世の中では評価される、称賛されると思ったし、そのことに微塵の疑いも持たなかった。 だが、目前の泣き崩れた美羽の姿は、それを真っ向方否定していた。

親父の事業が駄目になった大学時代に味わった貧しさが俺を食いつぶす前に、這い上がろうと必死にもがいた。何も考える必要もなく、ただただもがいて、未来があると信じきった。

そして、結婚しても、娘達が生まれてもその考えは変わることはなかった。家族にカネの不自由をさせさえしなければ、世間よりも少しだけ裕福感の持てる生活を与えたなら、すべてが許されるはずだった。土地を買い、目立つほどの広さの家を建て、庭全体に芝生を張り木を植えた。

20年間もがいてそこまで這い上がれた時、親父の2度目の倒産で大きな借金を肩代わりした。それでも諦めることなく、すべてを背負いこんで8年間、もがきにもがいてた自分が・・・、親父の会社を再建し、200名の雇用を守りきったことが正直誇らしかった。

そしてそんな姿を世の中のように、家族はどこかで受け入れてくれていると信じていた。

「ママはパパに言えないでいるんだよ。もうずっと前に分ったみたいだけど」

「いつ?」

「5月くらいみたい・・・」

「そうか・・・」

「早くしないと手遅れになっちゃうよ」

「そうだな・・・」

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ステージⅢa、局所進行乳癌、シコリの大きさはT2(2~5センチ)で、リンパ節に転移の可能性大。緊急で手術をすれば摘出できる可能性が高いが、術後に放射線治療と抗がん剤投与が必須であると、医師から説明を受けた。

「完治しますか?」との問いに「開けてみないと分りませんが」と答えた。

「できるだけ早く手術したかったのですが、1か月以上伸びてしまったので、影響がどの程度か・・・」

「そうなんですか?」

「いろいろ御事情もあるでしょうけど命の問題ですからね」

「先生、生存率ってありますよね?」

「はい、参考でしかないですけど、Ⅲaだと・・・5年生存率は72%くらいですか」

翌週の月末に手術となったが、ぎりぎりまで月末の資金繰りをして病院に駆けつけた時は、2時間ほどの手術も終わり、女房は病室で寝ていた。岡山から女房の両親が駆け付けてくれたが、遅れた俺に対して娘達は不機嫌そうに振る舞った。

 

年の瀬を迎えて、どうしても手をつけられないと思った預金を突っ込んで、年末の資金手当てをぎりぎりで間に合わせると、言いようのない罪悪感に襲われた。

ライブドア株で失って残った1200万と少しのカネを家に戻してあったが、手術費用で200万ほど下ろした。そしてどうしても足りなかった僅か800万の資金手当てのために残りを使った。

術後、女房の母親が家事を取り仕切ってくれたお陰で、なんとか仕事ができていたけれど、放射線で髪が抜け落ちた女房の姿を見るのが辛かったし、クリスマスを資金繰りでドタキャンした俺に娘達は批判的だった。

26日の夜10時を回って、経理からの最終報告を受けたあと帰る気になれず足が遠のいていたBARに寄った。年末とはいえクリスマスが終わった20軒ほどの繁華街は、不思議なほど閑散としていた。

風俗店の前では若い客引きが声をかけてきたが、「悪いね、俺この歳でもう駄目なんだよ」とジョークで受け流した。通りの外れの右奥に細い雑居ビルがあり、その4階にSHOT BAR OZと小さな看板が目についた。

カウンターのいつもの場所に座って店内を見回すと他に客はいなかった。

「社長、申し訳ないですけど私は30分ほどで・・・」

「そうなの?」

「今夜はこれから野暮用なんですよ」

「長居するつもりないんで、いいよ。2.3杯で」

マスターとの会話に珍しくひろみちゃんが割り込んだ。

「よかったら私、残りましょうか?」

「そう?」

「1時間くらいならお相手します」

ひろみちゃんの好意に甘えることにした。マスターは丁重に「お先に失礼します」と軽く会釈して、「じゃ、ひろみちゃん、鍵忘れないで」と言って帰って行った。

若いころ、女房と良く飲んだドライマティーニを2杯頼んで、オリーブを一つかじってからバーボンを何ショットか飲んだ。

飲みながら目の前のカウンター越しにあるボトルラックをぼんやり眺めて、感情のない涙が頬を伝ったけれど、拭いもしなかった。ひろみちゃんは、カウンターの反対の端に立っていたけれど話すことはなかった。

そして、疲れはてて酔いで思考が止まり、いつのまにか罪悪感も薄れ涙も乾きカウンターに伏せって寝てしまった。

肌寒さで気がつくと12時を回っていた。ダウンライトはカウンター付近だけが点いていて、店内は闇に覆われていた。そして、L字カウンターの角に彼女が座ってたばこに火をつけていた。

「ごめんなさい。疲れちゃって」そういうとたばこを消してカウンターに戻った。

「社長さんも疲れてるみたいですね。もう、帰っておやすみになったほうが・・・」

「悪かったね。いろいろあってさ」

「私も・・・年内でお店辞めるんです。いろいろあったから」そう言って笑顔をみせた。

「初めてかな?こんな風に話しするの」

「じゃ、最初で最後かも」

「そうだね、思い出にはならないけどね」

「お互いのことなんか、すぐに忘れちゃいますよね」

「ひろみちゃん、帰ったら一人なの?」

「寒い部屋に帰るんですよ」

「俺もね、寒い家に帰るのよ」

「御家族がいらっしゃるのに・・・?」

「いまは気持ちが寒いんだよ」

奥で着替えるのを待って一緒に鍵を締めて店を出た。エレベータのなかで「送りましょうか?」と言われて駐車場までの路地を肩が触れ合うように歩いた。

半分ほど来た頃、ひろみちゃんの手を握ったけれど、「社長さん、酔ってるから」と言うと腕組みに換えた。「良くない気分になっちゃうね」と言うと彼女は「思い出になるかな?」と答えた。

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3

女房は年が明けると放射線治療の副作用が一段と酷くなった。すでに頭髪やまゆ毛は抜け落ちていたが、連日の吐き気と嘔吐で食欲はなく、首から腹にかけてに発疹ができ、倦怠感で家事もままならない状態が続いた。

手術は乳房を温存した部分摘出だったが、リンパ転移と癒着が認められたために、術後の放射線治療とその後の抗がん剤治療は必須と担当医師は説明した。

「転移の可能性が高いので、できるだけ体調を見ながら対処しておくべきでしょう」

曖昧な表現の多い医師の言葉から、患者の家族は真意を聞き出そうと懸命になるけれど、結局どうなるのかは医師にも分らない。それが癌という病であることは十分に承知していた。

それでも、苦しそうな女房の姿は、不安を掻き立てずにはいられなかった。もっと高度な専門医を探すべきではないか、治療先を移るべきではないか、出来ることはなんでもして転移を防ぐべきではないか、と痛切に感じさせた。

だが、女房はそんな俺の意見を「今のままで十分だから・・・」と受け入れなかった。年末に預金を引き出してしまって、そんな余裕はないことを女房は承知していたのだ。

年明けすぐに「また来ますからお願いします」と言って岡山へ帰省した母親の代わりに、二女の美樹が高校の部活動を退部して、懸命に家事を手伝った。そして長女の美羽も後期試験を終えるとすぐに帰って家計を取り仕切っていた。

 

1月の社内会議では、子会社の新規受注案件が報告され一筋の光が見えた。2007年度は2年連続の赤字は回避できそうになかったが、来期は大型の受注ができたことで業績は回復に向かうと社長の塩谷は言った。

子会社の業績さえ回復すれば、なんとかなると思った。少なくとも本社業績はなんとか黒字を維持できそうだったし、訴訟相手であった大手の妨害もだいぶ薄れていた。

「来期はなんとかなるか・・・」

そう思うと、目頭が熱くなった。

会議を終えて社長室に戻ると、いつものように恵子が珈琲を持ってきた。

「奥様の具合はどうですか」という恵子に、あえて事務的に状況を説明した。

一通り真剣な表情で聞き終わった恵子は突然、「社長、私、退職しようと思ってるんです」
と切りだした。

「そうなのか?」

「ご迷惑もかけてしまったし、夢も叶わなかったし」

「上場中止を気にしてるのか?」

「こんなオバサンだけど、もっと可愛がってほしかった・・・」

まるで捨て台詞のように言うと、仕事に戻って行った。

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月末を信用金庫からの短期借り入れで何とか凌いで、矢沢に声をかけ、ラーメンをすすった後、年末以来のOZに寄った。

「社長、早く帰ったほうがいいんじゃないですか」

いつものカウンターの位置で、マスターに聞こえるように矢沢が言った。

「どうかされましたか?」と珍しくマスターが話に割り込んだ。

「それはこっちの台詞だよ。マスター、ひろみちゃんは?」

「ああ、彼女は辞めたんですよ」

「どうして?」

あの日、辞めると聞かされたけれど事情を聞くことはなかった。

「この店ではたいした給料払えないもんで・・・」

そう言いながらマスターはマティーニを3杯作った。

「彼女、社長と同じマティーニ派だったんですよ。彼女が不幸になりませんように」

そう言って三人で一気に飲み干してオリーブを齧った。

「ひろみちゃんは、クラブホステスやるみたいですよ。母親の病気がだいぶ悪化してるみたいで。末期癌らしいです。父親は商売に失敗して5年くらい前に逃げちゃったって言ってました。そんな事情じゃ、引きとめられませんよ」

マスターはいつになく饒舌に語り、

「父親代わりと思ってましたよ。でも私の力じゃ・・・」

そう言って涙ぐんだ。

あの夜、車の前で「寒いね」と言ってひろみちゃんを抱きよせた。

「社長さん、これが思い出?」

彼女は拒まなかった。

「もっと?」

そう聞くと彼女はそっと目を閉じた。冷たくなった両手で、彼女の顔を引き寄せようとすると、ピアスが外れ路上に落ちた。罪悪感が凍てついた夜気で固まってしまった。

 

「社長さんはこんな車、乗ったことないでしょ」

国道から環状線に右折して、恵子の事故現場を結構なスピードで走りぬけた。長身の俺には助手席がタイトで膝がダッシュボードに当たった。あちこちから軋むような音がして、なかなか暖まらなかった。

「中古の軽なんで我慢ですよ」

「ひろみちゃん、俺の家は通りすぎちゃったよ」

「あっ、ごめんなさい。私、自分のアパートへ帰ろうとしちゃった。またひとつ思い出・・・」
そう言って彼女は笑った。初めて彼女の笑い声を聴いた。

わき道に逸れてUターンして環状線に続く県道脇を右折すると自宅から100メートルほど手前に空き地がある。そこまで送ってもらって車を止めた。

「社長さん、もう会うことないと思うけど、思い出ありがとうございました」

「俺はちょっと未練あるよ」

「そんなこと言わないで」

「じゃ、いつか、お互いにこの先悲しいことがあったら・・・」

「慰めてくれるんですか?」

「約束するよ」

「じゃ、その時のために番号交換しておきます?」

「いいよ」

「やはり癌なんだ」と思った。癌に蝕まれてゆく母親の傍で、彼女はどんな思いでいるのだろうと思った。末期癌の母親のために、クラブホステスになって、酒の相手をして、毎日のように嫌な思いをして・・・。そんな彼女に、美羽や美樹が重なってしまった。

そして今夜にでも、彼女と話したいと思った。けれど、あれ以来一度も携帯が鳴ることはなかったから・・・。

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4

恵子は3月で退社することになった。

「孫が生まれるんですよ。面倒を見ないといけないんです。もうオバアちゃんですから」

珈琲とともに、バレンタインのチョコレートを差し出して言った。

「ありがとう、もうそんな時期かぁ」と言うと、

「それとこれも・・・」と言ってトレーの裏側に持っていた辞表を差し出した。

「どうしても辞めるの?」

「言ったでしょ。孫が生まれるって」

「わかった・・・」

恵子はデスクの前に姿勢よく立って「いろいろお世話になりました」と堅苦しい礼をした。努めてよそよそしく振る舞い、単純な遊びではないにしてもいつかは終わってしまう不倫という関係を清算しようと決意しているようだった。そして恵子との距離が一気に広がった気がした。

「後任はどうする?」

「営業部の川上さんはどうですか?」

「彼女はだめだよ。営業の貴重な戦力じゃない。彼女はああ見えても客先の評判はいいんですよ」

「では、子会社に良い人居るんですけど・・・」

「誰?」

「経理の見辺洋子さん。見辺さんなら適任ですよ。私も引き継ぎしやすいし」

「見辺さんと親しいの?」

「子会社化する時、私2ヶ月ほど出向したでしょ。その時にいろいろ」

「わかった。(社長の)塩谷に頼んでみるよ」

本社では制服を設けず自由な服装というのが俺の方針だった。けれども恵子はいつも、タイトなスカートにリボンのついたブラウス姿で、冬はきりっとしたジャケットを着て出社した。

若い社員たちはおおよそ仕事にはふさわしくない見なりの者もいたが、徐々にある一定の水準を保つようになった。恵子はそういう指導のできる人だったから、見辺さんでは心もとないと感じた。

そして翌週から見辺さんは、本社へ出社となった。

 

2月末に総務省の肝入りで始まった、中小規模自治体向けの行政管理システムをF社と共同申請の末、受注することができた。

補助金事業のため入札はなくシステム概要を添付した申請書の審査で決まる。中小自治体では予算規模、人材等の問題があって行政のシステム化が極端に遅れていた。政府の給付金等景気対策にタイムリーに対応することが困難だったし、また介護行政との連携もシステム化できずにいた。

そこで、セキュリティとオープンシステムに強いF社との共同申請を苦労の末まとめ上げた。そしてこの事業は今後3年余りにわたって本社事業の中核となり、またその後の保守、拡張も含めて本社事業拡大の可能性を秘めていた。

3月に入るとすぐに霞が関の総務省にF社とともに挨拶に出向いた。初めての中央官庁からの受注に気分が高揚した。帰りにF社と会食し今後の連携を確認したのち、帰路についた。

同行した佐倉の後任の吉田にとっては初めての社運を左右する仕事に参加できたことで大いに興奮していた。

「社長、やりましたね。流石です」

「後は吉田に任せた。がんばってな」

「もちろんですよ。帰ったら社員にはっぱかけますから」

「おい、ちゃんと運転しなきゃ。事故起こすぞ」

夜8時過ぎには環状線の内回りから外環へ。そして、関越へ出たところで、携帯が鳴った。恵子からだった。

「お疲れ様です」

「順調だったよ。吉田も上機嫌だ」

「社長、こんな時に言い辛いのですけど・・・佐倉さんが、亡くなってしまったんです」

「えっ?どういうこと?」

「さっき、連絡が・・・。子会社の倉庫で・・・自殺だそうで・・・」

「なんだよそれっ!意味がわからんよ!」

「私もこれから警察に・・・」

「わかった。大至急戻る」通話を切り、吉田に話すと車は急に加速した。

「おい、事故起こすから、そんなに飛ばさなくてもいいから」

「佐倉さん、悪い人じゃなかったですよね」

「ああ」

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胸が締め付けられて苦しくなった。

「どうして自殺なんだ?何かあったのか?」

佐倉が35歳のとき、同業の勤務先の倒産で失業していたのを拾った。

「佐倉君、うちに来るか?」と声をかけたとき、満面の笑みで「ありがとうございます」と言った。それから親父の事業の清算では、従業員の説得や、苦難の場面で汚れ仕事を買って出てくれた。

営業では押しが足らないところもあったが、そんな佐倉が可愛かったし、数年して取締役に引き上げたときも、「俺なんかでいいんですか?」と言いながら涙を流した。

「こんな俺を、たいした学歴もなくて百姓の倅で・・・」

「馬鹿、俺は佐倉をかっただけだよ」大の男が周囲を憚らず泣いた。

「これから上場だぞ!」

「はい」

あの会議室での光景をとっさに思い浮かべた。そして、佐倉に何があったのか分からないが、架空取引に手を染め、取引先の担当と会社設立や社員の引き抜きといった謀議を巡らせた。佐倉はいくら問いただしても理由を言うことはなかった。

上場は失敗し、佐倉を刑事告訴しなければならなかった。「どうして、そんなことになってしまったのか?」と何度も考えた。佐倉の告訴を取り下げてくれと懇願した奥さんの姿や、農作業の格好でギョロっと目を見開いた親父さん、そして俯いてばかりだったお袋さんの姿も目に焼き付いている。

けれども佐倉の犯した裏切りは、あの日の佐倉の満面の笑顔を否定してはいなかった。子会社で再雇用した佐倉といつかもう一度、腹を割って話がしたいと思っていた。

 

夜9時半には地元警察に着き、霊安室の佐倉に手を合わせた。入室したとき、私を認めた奥さんと娘さん、それに両親が一斉に声をあげて泣き出した。「奥さん・・・」と声をかけると、泣き腫らした顔で縋りついてきた。佐倉は申し訳なさそうに横たわっていた。

50歳過ぎの警察官は、事件性はなく精神が疲れた上の衝動的な自殺ではないか、と言ったが、一応ということで、事情を簡単に聞かれた。

霊安室の手前の廊下のベンチには、恵子と塩谷がいた。ハンカチで目を覆っている恵子を残して塩谷が近づいてきた。

「ご苦労様です」

「で、どこで?」

「倉庫の奥にちょっとした管理室があるでしょう?その横でクレーンにロープをかけて・・・」

塩谷は東邦警備が見回り中に発見したこと、そしてまだ間もなかったので救急車で蘇生したが、ダメだったことなどを説明した。

「そうか・・・でもどうして自殺なんか・・・」

「社員との折り合いも悪かったみたいで・・・。本社をクビになったひとだから・・・」

「もっと考えるべきだったな」

「いやいや、私ももっと注意すべきでした」

「可哀想なことをしたな」

「はい。ところで・・・」

「うん?」

塩谷は急に小声になって耳元近くに寄って話し始めた。

「これは警察には言ってないんですけど、クビを吊る前に、奥さんと井上さんに電話したらしいんですよ」

「なんて?」

「惨めだっていう感じのことを言ったらしいんです」

「奥さんはわかるけど・・・井上さんにまで?」

「さっき、井上さんから聞いたんです」

佐倉が死ぬ前に恵子に電話するという違和感に大いに動揺した。

「で、遺書はあったの」

「走り書きのメモ程度のやつがあったみたいです」

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5

翌日遺体は佐倉の実家に引き取られ通夜となった。出社して動揺していた社員達にこのことを説明し、主だった幹部で打ち合わせをした後、社長室に戻った。見辺さんが珈琲を運んできた。

「お疲れ様です」

「今日は見辺さんの珈琲だね」

「井上さんにちゃんと教わりましたから」

「席に戻ったら井上さんに来るように言って。通夜と葬儀の供物の打ち合わせしないとね」

「井上さんは体調悪くてお休みです。私が・・・。電話で聞いてますから」

こんな時、恵子ならば、珈琲が運ばれる時には卒なく迅速に手配が終わっているのに・・・と思った。10分ほど打ち合わせしたが、気分が重かった。

「井上さん、辛いでしょうね」最後に見辺が言った。

「まぁ、本社でずっと一緒にやってきたからね」

「でも・・・」

「うん?」

「お二人のこと、有名ですから・・・」

「何が?」

「なんでもないです。すみません」

「いいから、聞かせてよ」

しばしの沈黙の後、見辺さんは重い口を開いた。

「噂なんですけど・・・。休日に二人でデートしてるところ、何度もみんな見てるって」

「よくある噂でしょ。興味本位の。それだけじゃ・・・」

「でも(子会社の)倉庫で、抱き合ってキスしてるのを工場の人に見られちゃったみたいで、それでいろいろ言われてたこともあって・・・」

「まさか・・・」

そんなことがあるのか?と思った。まさか、恵子と佐倉が・・・恵子は佐倉とも・・・。心臓の鼓動が激しくなって胸が重くなった。

しかも、それが佐倉が子会社で折り合いが悪かった原因にもなっていた・・・。だとすれば、佐倉の本社での造反劇も、そして自殺の理由も、恵子ならみんな知っているのかもしれないと思った。

佐倉が架空取引さえしなければ、今頃は上場出来ていたのかもしれない・・・。佐倉と恵子に対する複雑な思いが渦巻いて、徐々に憎悪に変わるのを抑えきれないでいた。

 

佐倉の葬儀は自殺と言うこともあり、身内だけのひっそりとしたもので、親戚の参列も僅かだった。佐倉には兄弟もなく参列者はみな老いていて、焼香は10分ほどで終わった。祭壇横には親族の僅かな生花が飾られ、見辺さんが手配した大きな2社分の花飾りが、いかにも不釣り合いに見えた。

焼香が終わり火葬に向かう前に、青白くなった奥さんに「後日今回のことで相談の時間を」と声をかけた。奥さんは黙って頷き、「ご迷惑ばかり・・・」と言い掛けた。

そして葬儀の3日後、佐倉の母親が佐倉の跡をたどるように亡くなった。入水自殺と聞いた。

 

恵子は佐倉の葬儀に参列することはなかった。そして見辺さんに有給消化と「後日ご挨拶に・・・」と俺への伝言をして出社しなかった。

女房は放射線治療から抗癌剤による化学療法となったが、治療の影響か見る見る痩せてしまって食欲もなかった。3月になって女房の母親が来て美樹と二人で家事をこなしてくれた。美羽はサークルの合宿にも参加せず帰郷して運転免許を取得し「これでママの通院と買い物ができる」と言った。「大きな家は家事が大変ねぇ」と母親はボヤいた。

だが、2ヶ月間赤字の引責で給与を返上していたから、家計の預金は完全に底をついていた。なにもかもが苦しかった。

すっかり春めいた陽気になって大量の花粉が飛び始めて、大陸からの黄砂のように霞がかかり息苦しさを助長した。そして、何としても恵子からすべてを聞き出さねばならないと思った。

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彼岸の終わりに親父の家に立ち寄り仏壇に手を合わせた。親父とは事業の清算と再建の過程で、争いもしたが、子会社化して落ち着くと相談役に迎えた。本社でも子会社でも会長と呼ばれたが、正式なものではなく愛称に近かった。

「どうだ?久しぶりにゴルフせんか?」

引退後、最後まで手放さなかった喜連川カントリー倶楽部へ通うのが唯一の楽しみだった。

「行こうか・・・気晴らしになるから」

「そうか、じゃ週末の日曜に」

「(予約)取れるんか?」

「オーナーに言うから大丈夫だ。メンバーも揃う」

「わかった」

東北自動車道を走り矢板ICで降りて20分ほど。ひっそりとした、それでいてモダーンなデザインのクラブハウスは他の金満趣味なゴルフ場とは一線を画す。チェックインのあとオーナーの渡辺喜太郎氏と会った。

「今日は私も・・・」

「それはいい。あっ、息子です」

「頼もしいですね。うちにも2人いるが、なかなかどうして・・・」

「で、もう一人は?」

「紹介します。昔世話になった有坂君。たしか野村だったよね?」

「はい。オーナーにはいろいろこき使われました」

「うちのメンバーだったって知らなくてね。お仲間が渋滞で来れないって連絡あったらしく一人だったんだよね?」

「せっかくだから3名のパーティがあるかと思って」

「どこかで会ったような記憶があって・・・偶然だよなぁ」

「まさかオーナーが社長とは思いませんでした」

これが師匠との出会いとなった。親父はシングルプレーヤーで、渡辺氏から先生と呼ばれ上機嫌だったし、渡辺氏はかつてを知る同伴プレーヤーの出現に饒舌だった。まだ60代半ばの有坂氏は二人の老紳士のホスト役を買って出た。

そんな師匠に「もう、楽しんだほうがいいですよ。昔じゃないし」と声をかけた。

「私も懐かしんですよ。あの頃は渡辺社長、凄かったからね」と有坂氏は言った。

奇遇とはあるもので、長く東京でサラリーマン生活を過ごした後、あちこちの支店をまかされいまは、隣市の奥様の実家の傍に家を買って住んでいると。「私は二男ですから、オヤジがどこでも行けと」そう言って笑った。

プレーを終えて、ラウンジで談笑した時、渡辺氏が・・・

「小糸、覚えとるか?」と有坂氏に話しかけると、「忘れるもんですか」と有坂氏は返した。

「小糸ってなんです?」

「昔な、仕手戦やって儲けてた時代に小糸製作所の買い占めを・・・な!」

有坂氏は頷いた。

「大失敗だったなぁ・・・資金がなくなっちゃってな」

そう言って渡辺氏は笑った。

「私は、当時は使い走りですから」

そう、師匠は返した。

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